無意識さんとともに

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催眠の現象学62 傷ついた癒し手

『傷ついた癒し手』という言葉があったと思います。

完全無欠の、全くトラウマがない、そういう人が癒し手として人を癒すのではなく、むしろ傷を持った、トラウマを抱えた人こそが、自分の傷やトラウマ、つまり自分の深淵を通してこそ人を癒せるということです。

だから、カウンセラーも人にカウンセリングしながら、自分も誰かにカウンセリングしてもらい続ける、そういうことが必要な気がします。

これには、似たようなことが聖職者にあります。

カトリックの神父は、自分が人の悩みを聞きながら、そういう自分も他の神父に自分の悩みを聞いてもらうということがあるのです。

プロテスタントの牧師だと、そういうことがないので、自分ひとりで悩みを抱えてついには破裂してしまうということも起こるのかもしれません。

カウンセラーが、また違うカウンセラーにカウンセリングしてもらうことで、自己肥大化が防げます。

カウンセラーはクライアントにカウンセリングして、そのカウンセリングがうまくいけば行くほど、万能感を抱きやすいのです。

万能感を抱いて自己肥大化を起こせば起こすほど、自分が一種の神になってきます。

けれど、裏返せば、それは、まだある自分のトラウマや傷を、自分の中に見ないで、ただクライアントに投影して、クライアントの中にいる自分の影を救おうという虚しい試みだということもできます。

カウンセラーが別のカウンセラーにカウンセリングしてもらうことで、そういうことを防ぐことができます。
神ではなく、自分もまた、トラウマや傷のある人間に過ぎないことを知ることができるのです。

そうして、それは単純に、クライアントがどんな気持ちでカウンセリングを受けるのかを身を持って知ることにもなります。
さらに、究極的には、カウンセラーは、自分の深淵の深みを知った分だけしかクライアントを知り、癒すことはできないので、カウンセラーが、カウンセリングを受けて自分の深淵を知って、内省することは、終わりのない、非常に大切なことなのだと思うのです。
カウンセリングというのは、神が人を癒すというものではなく、傷を負った人間が傷を負った人間を癒すというものであると、私は思うのです。