僕は、怒りというのはとても悪いものだと思っていた。
小さな頃から、僕が怒りを表すと、しつけだと言って押し入れや物置に後ろ手をさせられて投げ込まれたり、「馬鹿、気狂い」と言って罵られた。
だから、なるべく、怒らないように、怒っても怒りを表さないようにしてきた。
けれども、そうしたところで怒りがなくなるわけではない。
怒りは心の中で、今にも爆発しそうな火山のマグマのように燃えたぎっている。
そんな噴火間近の火山のような僕は、自分のことをそうは思いたくなくても、やはり、母の言うように、「気狂い」なのかもしれないとおびえてきた。
けれども、心は、『怒りの斧で』母とつながる臍の緒を叩き切れと言う。
怒りは、僕の知っている限り、キリスト教や仏教でも悪いもの、毒として捉えられている。そんなふうに本で読んで、それが当たり前のように理解してきた。
それなのに、『怒りの斧で』絆を断てとはどういうこと?
心に聞いてみる。
『心よ、怒りは悪いものじゃないの?』
『怒りは当然のもので、いいものでも悪いものでもないよ』
『心よ、僕は怒りが悪いものだと思って抑えてきたんだけど』
『そう支配者に思い込まされてきただけ』
『心よ、何でそんなことをするの?』
『怒りで支配から自由になるのを妨げるため』
『心よ、キリスト教でも仏教でも怒りは悪いもの、毒として教えられているみたいだけど?』
『支配者が、支配しやすくするために宗教をつくったからそうなっている』
『心よ、じゃあ、僕は怒っていいの?怒ることがいいことなの?』
『怒っていいけど、怒ることそのものがいいことというわけでもない。大切なのは、怒りで支配者との絆を完全に断ち切ること」
『心よ、怒りは相手を破壊するためじゃないの?』
僕は、母への怒りを溜め込んで、母を破壊する代わりに自分を破壊してきたのかもしれないと思った。
「相手を破壊して傷つけようとしたら、それは支配者の思う壺。そこに快感が生じるから。怒りと愛は裏表。そしてそんな愛は相手に対する執着。相手を心の刃で刺しながら、『どうして愛してくれないの?』と叫ぶことなんだよ」
「心よ、じゃあ、どうしたらいいの?」
「怒りで破壊するのは、相手ではなく、相手との絆、臍の緒を断ち切った時に、相手は自分とは無関係な他人になる」
「心よ、具体的にはどうしたら?」
「私に、願ってみて」
「心よ、私は、この怒りの斧で、母との絆、臍の緒、関係を完全に断ち切ります。母は、もう私とは関係のない赤の他人です」
「それでいいよ」
言った後、特には実感はなかったのだが…