無意識さんとともに

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「心に聞く」が宗教にならないために

「心に聞く」ということは宗教でもスピリチュアルでもない。それはどういう意味なのか?

同じようなことは、宗教でもスピリチュアルでもある。

宗教だったら神の声を聞くということがあるし、スピリチュアルだったら霊の声とか宇宙の声を聞くということがあるかもしれない。

それと何が違うのか?

大きく違うのは、私が「心に聞く」ということは絶対的に正しいということではないということである。

絶対的に正しいとは何か?

それは、いつでもどこでも誰にでも当てはまるということである。

例えば、キリスト教の中では、神の声の集大成である聖書の言葉は、時代を超えて、世界のどこであろうと、信仰している自分だけではなく自分以外のすべての人に当てはまると、そういう意味で絶対的に正しいと信じられている。

ある言葉がそう信じられてしまった時、その言葉は相手を裁く言葉になる、つまり、相手がどう思おうどう言おうが、『あなたの真実はこうだ』と相手を絶対的に判断し支配する言葉になってしまう。

すなわち、それこそが、支配者が用いる『支配の言葉』に他ならない。

例えば、「誰でもわたしによらなければ神の国に入ることができない」という聖書の言葉を、いつでもどこでも誰にでも当てはまる言葉として捉えるならば、キリスト教を信じないものは天国に入れない、つまり地獄に行くしかないものと裁き判断し支配する言葉となる。

相手の生殺与奪を握る支配者の言葉に化する。

ところで、これは「心に聞く」ということにも当てはまることである。

それが、外側だけ、神や霊や宇宙でなくて、心に聞くのであっても、私が心に聞いたことがいつでもどこでも誰にでも当てはまると信じ込んでしまったら、それはたちまち支配の言葉に代わってしまうのだ。

「心の語ることには揺らぎがある」と言われる、ある時はこう言い、またある時は全然違うことを言ったりする。

その意味は、心の言葉とは、いつでもどこでも誰にでも当てはまることではないということだ、つまり、心の言葉とは、今ここにいる私に向けて語られる言葉であってそれ以外のものでは決してない。