無意識さんとともに

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真実はいつもひとつなのか?

「真実はいつもひとつ」とは名探偵コナンのセリフである。

そして、私たちの意識はいつもこのセリフを叫んで、このセリフの言うことを信じたがっているのかもしれない。

 

「心に聞くこと」は絶対に正しいことというのではない、と前の記事に書いた。

そして、今日、FAP上級講座に出て、I先生が講義の中で「FAPの指を信じているわけではない」「『これが絶対である』という断定はしない」というのを聞いて、ますますその感を強くした。

 

さらに、講座の終わりで、「(FAPで支配者の特定をするのだが、心に聞く人によって)支配者が変わることがあるが、それはいろいろな人のフィルターを通すから」とI先生がO先生の同意のもと、言っていた。

 

これはどういうことなのか?

 

1日目の講義でも、O先生がFAPは事実ではなくナラティヴ(ストーリー)であることをしきりに強調されていた。

 

「心に聞くこと」もFAPもナラティヴ(ストーリー)であるならば、唯一絶対の事実というのではない(事実との対応はあるにしても)。

真実はひとつなのではない。無意識にあっては、真実はいくつもあるのだ、人を癒すストーリーは無数に紡ぎ出されるのだ。

だからこそ、人が違えば、また関係が違えば、ストーリーは変わる。そのそれぞれのストーリーの中では、属性が違うことも、特定された支配者の違うことも当然である。

さらに、「心に聞くこと」も「指を振ること」もFAPも、催眠の中で語られるスクリプトのようなものだと考えてみれば、ことはもっとはっきりする。

誰も、これが唯一絶対のスクリプトなどと考える人はいないだろう。

「心に聞くこと」も「指を振ること」もFAPも、その時、その場で、その人に与えられたスクリプトなのである。

 

考えてみれば、聖書も仏典も他の宗教の経典も、ある時、ある場で、ある人に与えられたスクリプトなのかもしれない。

しかし、それを固定化し、唯一絶対に正しいものとすることで、スクリプトが宗教に硬直化されるのだろう。

 

しかし、無意識さんは無限に柔軟である、誰も無意識さんを独占することはできず、無意識さんは、いろいろな人を通し、いろいろな時に、いろいろな場で、無数のナラティヴ、ストーリー、スクリプトを生み出し続ける。

「心に聞くこと」も「指を振ること」もFAPも、その中のone of themであって、all of allではない。真実は夜空にまたたき輝く星の数よりも無数のストーリーなのである。