どんな本を読んでいるかと聞かれれば、今、読んでいる本を答えればいいが、好きな本と尋ねられると戸惑う。自分はどんな本が好きなんだろうと戸惑ってしまった。
けれど、最初に心に浮かんだのは、あの本だった。それで、思わず、口に出した。
「ゲルトルート」
「おっ、ヘッセの『春の嵐』か。どんなところが好きなんだい?」
主人公を自分に、ゲルトルートをはまっちに重ねていたのかもとはなかなか言えない。それで曖昧なことを言ってしまった。
「ちょっと一言では言えないです」
「そうか、まあ、いい」
部長と話していると、見た目は見目麗しい女性なのだが、男性と話しているのか、女性と話しているのか、わからなくなってくる。それが何だか心地よい。
「ところで、部長は何でそんな話し方をするんですか?」
思わず、気が緩んだのか、失礼なことを尋ねてしまった。
「私か?そうだな、人間を男とか女で分けるのは嫌いなものでね」
何だか、かっこいいな、男装の麗人みたいだなと思った。男装はもちろんのことしていないが。
「人間がまず最初に来る、そういう考え方は共感できます」
「そう思ってくれる人がいてうれしいよ。そういうと、たいてい、変人扱いされるからね」
いつの間にか、団地のある公園のところまで歩いてきていた。
「ちょっと、座っていかないか?」
「はい」
部長とぼくは、狭い公園の、風雨に晒されて青いペンキの剥げかけたベンチに並んで座った。
『こんなところを誰かに見られたら、何と思われるだろう?』そう思いつつも、何だか、俄然、部長の人となりに興味を覚えるのだった。
「ほんとのところ、小さい頃から、男らしいとか女らしいとかよくわからなくてね」
「ぼくもそういうところがあります」
「そうか、それはよかった。男とか女とかじゃなくて、なんかこう輪郭のはっきりした、人間はどこかにいないものかと探したものさ。周りの大人は、みんな境界線がぼやけている何だかわけのわからないものに見えてね」
「確かに…そうですね」
「特に、群れている人間には我慢ができなかったりする。自分というものをなくして、団子状のように、皆くっついている感じで、吐き気を覚えるんだ」
過去の自分と関わったいろいろな人たちのことが現れては消え、現れては消え、頭の中で点滅した。
「キルケゴールの単独者という言葉を知っているかい?」
「いえ、知らないですが、どういう意味ですか?」
「神の前にひとり立つ人のことだよ。太陽のごとき神の前にひとりで立つことによって、光によって地面に濃い影ができるように、人と違うその人の姿がくっきり映し出される」
何だか、頭がくらくらした。この人ヤバい人かもしれないなと思った、いい意味でも悪い意味でも。すぐに離れたいような、でもずっと一緒にいたいような力を感じた。
「君もそういう単独者かもしれないな」