人は、何かに殉じる人の話が大好きなのかもしれない。
命を賭して、国のために殉じ、正義のために殉じ、神のために殉じる。
そんなことをするのは、国の物語を、正義の物語を、神の物語を、唯一絶対に正しい物語として信じるからである。
そして、その物語を同じく信じる人たち=内、信じない物語を脅かしてくる人たち=外として、内を守るために外と戦って、命をささげるのである。
ところが、無意識は物語を切り替える。
場面に応じて、状況に応じて、関係性に応じて、成長段階に応じて、無限に新しい物語を生み出し、物語を切り替える。
だから、無意識の人は、何かに殉じる人ではあり得ない、無意識の人には内も外もなく、絶対的に正しいとか間違っているということもない。
傍目で見るならば、殉教者は信念の人、無意識の人は無節操な人に見えるだろう。
だからこそ、変貌自在、自由自在、無敵で、風のように吹いては跡をとどめないでまたどこかしらに吹いていく。
無意識の人がどこから来て、どこへ行くのか、それは誰もわからない。