藤堂さんは言った。
「背もたれに体をゆったり預けて、両手を膝の上に置いていただけますか?それから、軽く、目を閉じていただけるでしょうか?」
「始めさせていただきます。
自分の吸う息、吐く息に注目していると、
知らず知らず、あなたの意識は私の声に耳を傾けることができて、
あなたの無意識は床に足がついていることに気がつくかもしれません。
あるいは、
あなたの無意識は私の語っていることを聞くことができて、
あなたの意識は床に足がついている感触に気がつくことができるかもしれません。
また、あなたの身体はイスにしっかり支えられてイスに沈み込んでいくのを感じることができて、
あなたの心は次第にリラックスの中に沈み込んでいっているのを自覚できるかもしれません。
それは、あなたが味わうためなのです、心も身体もひとつのものとして今、ここにあることを。
そうして、
あなたが呼吸を一回するたびに、あなたの身体の重心が下がって大地に根を張る木のように感じられ、
あなたが脈を一つ打つたびに、あなたの心も沈み込んで催眠のトランスの中に安らいでいくことを発見するかもしれません。
それは、あなたが自然なあなたのペースで、あなたの主導権のもとに、限りなくあなたがありのままのあなたに戻って、あなた自身を楽しむようになるためなのです。
あなたは、私の語る言葉にも注意を払う必要はないのです。
あなたは、あなた自身が興味を持ち、自分が選択する言葉にだけ注意を払えばいいのです。
幸子さん、もしかしたら、今、外からの物音が聞こえるかもしれません。エアコンの音だったり、パソコンの作動音だったり、さらに外だけではなく、自分の内側で記憶の中のいろいろな声だったり、自分のつぶやきが聞こえているかもしれません。
でも、ちょうど、電車に乗っている時のようです。
あなたはヘッドフォンをつけてお気に入りの音楽を聴いているのです。
その時、いろいろな音が周りでするかもしれません、電車の振動音、話し声、携帯メールの着信音、それだけでなく、自分のいろいろな思い。
けれども、お気に入りの音楽を聴いているうちに、それらの音は消え去って、あなたは音楽の中に没入してしまうのです。
あなたは音楽の中に身も心も委ねて浸りきっていることを発見できるのです。
それと同じように、今なのか、それとも後なのか私はわかりませんが、あなたもまた入っていくことができるのです…幸子さん…両手両足を伸ばしてトランスの凪の中に浸り切ることが。
今、あなたは口だけ催眠から覚めて動かすことができます。
何が見えますか?」
わたしはぼうっとしていたが、何とか、口を動かすことができた。
「深い森が見えます」
「あなたはこれからどうしますか、この森に入っていきますか、それともここにとどまりますか?」
「…入っていきます」
「あなたが森の中を歩いていくと…何が見えますか?」
「えーと、あの小屋が見えてきました」
「鍵は開いていますか、それとも閉じていますか?」
「開いています」
「中に入りたいですか?」
「はい」
「それでは、戸を開けて中に入ってください」
…
わたしが戸を開けて中に入ると、あの変わらない匂いがした。
何一つ変わらなかった。左手にモスグリーンのソファ、木のテーブル、長椅子、スチールの棚には薬品が並んでいた。
わたしは懐かしさに涙がこぼれた。
けれども、また、どこか違う気もした。変わらないのに、変わっている感じ。
そして、どうして目に入らなかったのだろう?
部屋の中心に、男の人と女の人が、隣同士ではなく、テーブルを挟んで向かい合って座っていた。
二人の距離感は、遠すぎることもなく、近すぎることもなかった。
そして穏やかに落ち着いて話している。
…
「何が見えますか?」
「男の人と女の人が話しています」
「どんなことを話していますか?」
「男の人が『報われないものは何ひとつなかったね』と言っています。
女の人が『そうね、周り道が今、ここにある私とあなたを形作ってくれたものね』と静かに微笑んでいます」
「それを聞いて、あなたはどう思いますか?」
「わかるような、わからないような」
「今、彼らに近寄って、話しかけることはできますか?」
「はい、やってみます」
「彼らに尋ねてみてください」
…
わたしは、おずおず、近づいた。彼らは、わたしに気がついて、微笑みを投げかけてくれた。
「よく、やってきたね、幸子。待っていたわ」
女性が言った。
「はまっち、会えてうれしいよ」
男性がさもうれしくてたまらないかのように言った。
「あなた方が言っていたことはどういうことですか?」
「幸子、今はわからないかもしれないけれど、あなたがあなた自身で答えを見出していくから」
「はまっちが毎日歩むその歩みが、答えを紡ぎ出してくれるよ」
そう言って、彼らはわたしにも白磁のティーポットからティーカップに紅茶を注いで、わたしに勧めてくれた。
ひとくち、飲むと、わたしは喉からつかえが取れたようで、何だか身体がとても暖かくなった。
「ここはいつでも、どこにもあるからね、あなたの道の彼方にも、道の途中にも、いつでも、どこでも」
「はい」
そう言うと、彼らの姿も、小屋もすっと掻き消えた。
…
「彼らに尋ねることはできましたか?」
「はい」
「それでは、覚醒した状態に戻ってきます。
ひとーつ、心と身体に爽やかな風が流れ込んできまーす。
ふたーつ、心と身体がかるーくなってきまーす。
みっつー、深呼吸を1回か2回か3回して、すっきり目を覚まします」
目の前には、ただ藤堂さんが、怜のパパがいるばかりだった。
レースのカーテンはやはり揺れていた。
わたしは催眠から覚めたが、自分にかかっていたもうひとつの催眠からも覚めたようなそんな気がしてならなかった。