ある日も、松沢さんと一緒に帰っていた。
「ねえ、これから多摩湖に行かない?」
「今から行ったら、かなり遅くなっちゃうよ」
「私は構わないけど、優君は困るの?」
まるで、ネズミを前にした猫のような顔で聞いてくる。僕は何だか、頭が痺れてきてしまう。
「そうだね、行こうか?」
平日に、しかもこんな時間に多摩湖に来る人は誰もおらず、あたりはひっそり静まり返っていた。
僕たちは、ぶらぶらと歩いて住宅街を抜けて、多摩湖に向かった。
多摩湖の周りは木が多く生えていて、ほとんど森と言ってもいいぐらいだ。
僕は松沢さんの手を引きながら、先頭に立って、どんどん歩いた。
「もっとゆっくり歩こうよ」
「そうだね」
そう言いながら、僕は歩くペースが下がらない。どうしてだろうと自分でも思いながら。
小高い丘を上ると、彼女は大きく息をついた。
「疲れたの?」
「うん、ここで休んで行かない?」
彼女は細く長い指先で、木のベンチを指差した。
そう言われれば断ることはできない。
僕たちはベンチに座った。
僕も大きく息を吸って、学生鞄から本を取り出して言った。
「本、ありがとう。読んだよ」
本を彼女に渡す手が震えているのが自分でもわかる。僕は、心の中で、『神様』と叫んでいた。
「どうだった?」
そう言いながら、彼女は大きな瞳を輝かせながら、にじり寄る。
「うん、僕にはわからない」
「そう、でも怖がらなくていいのよ」
「どういう意味?」
そう聞きながら、僕は彼女の意味することが何となくわかっていた。
「私も初めてだから」
僕はもちろん、キスさえしたことはなかった。初めてというのはキスを意味するんだろうか?それとも…
「うん」
僕の方が彼女より1学年上なのに、僕は彼女より年下に感じる。
「本に書いてあったようなことを、これからしていかない?」
「嫌だ」
その瞬間、僕は彼女を突き放していた。
僕が望んでいるのはそんなことじゃない。いや、僕の体はそういうことを望んでいることが痛いほど、わかっていた。それでも、僕は普通の人と違うんだ、神様に選ばれた人なんだ。
「弱虫」
彼女は、憐れむような目で僕を見た。
僕は、最近読んだ、遠藤周作というカトリック作家の文章に書いてあったことを思い出した。
それは、ある神学生(神父や牧師志望の神学校に通う学生)が誘惑されて、女性と関係を結ぶが、『お前のせいで僕は堕落してしまったんだ、お前は悪魔だ』と最後に女性の首を絞めて殺してしまうという話だった。
僕が神学生で、松沢さんが女性にあたるかはわからない。
けれど、僕は、自分の性欲そのものに吐き気がした。理屈ではない、吐き気がしてたまらない。嫌だ、嫌だ、嫌だ。
僕は衝動的に駆け出した、唖然とする松沢さんをベンチに残して。
走って走って走って、何もかも忘れたかった、松沢さんのことも、神様のことでさえも。