無意識さんとともに

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聖人A 6 喪失

僕がそんなふうになる前は、まだ、神様というものを感じていた。

特に、幼い頃は、神様というのはもうひとりの僕のような存在で、ご飯を食べる時は一緒にご飯を食べ、眠る時は一緒に眠り、遊ぶ時は一緒に遊んでくれる、そんな存在だった。

だから、幼い僕の祈りも、そんないつも共にいてくれる、誰よりも親しい存在へのお祈りで自然なものだった。

僕はそんな存在を信じているというより、そんな存在の中に生まれ、存在し、呼吸しているのだった。

ところが、伝道者、牧師になると決心した後は、不思議なことに、そういう感覚が消えてしまった。

もう、存在は感じられないから、神は信じるもの、信じなければならないものに変わった。

同時に、近しい優しい顔から、不信仰なものを怒り罰する顔へと変わったのだ。

僕は、この存在を畏れ敬い、時にはおびえるようになっていった。

ある日、牧師は、ぞっとするほど怖い説教をした。

何でも、ジョナサン・エドワーズという有名な伝道者の書いた「怒れる神の御手の中にある罪人」という本を読んだそうだ。

「イエス様を信じない人は、神の怒りが頭上にくだっている。いや、もう生きながらにして地獄の中にあると言っても言いすぎではない。だから、死んだ後、地獄に行くのは当然ではないだろうか?主イエスの福音を聞く機会があったにも関わらず、主イエスを信じなかった人に神はもう容赦することはない。だから、息あるうちに、まだ間に合ううちにイエスを信じよう。信じて御心にかなう生活を送ろう。自分の周りで、イエス様を信じていない人がいるなら、今、この時にこの信仰を伝えよう、命が尽きる前に」

牧師は講壇から叫んだ。ふだんは温厚そのものといった人だったが、何だか、瞳に人を火あぶりにするような炎が燃えているようだった。

僕は、最初に抵抗を感じたが、まるで酒に酔うように、毒酒にように、みんなと一緒に、アーメンを繰り返した。

この日から、何だか、教会の雰囲気も変わっていった。

皆が、ことあるごとに、「リバイバル(信仰復興)、リバイバル」と言い出すようになった。

僕の信じる神の顔もますます怖い、信じない人を喜んで裁き、自ら地獄に落とす冷酷な裁判官のような顔に変わっていった。

僕の信じる存在の顔が変わったというだけではない、僕の顔も同じように変わったのかもしれない。

外面の顔は相変わらず優しい顔だったが、内面の僕の顔は怒れる神の顔だった。

人に優しくして、相手が僕の優しさを受け入れて変わってくれないと、僕は相手を滅ぶべき罪人として心の中で地獄に落としていたのだ。

僕には、幼い時に聞いていたあの優しさに満ちた存在の声は、もう一切、聞こえなくなっていた。