ここまで書いてきて、支配者に支配されている兆候は、正義中毒(善悪正誤で全てを判断しようとする)、承認欲求の暴走(人に好かれる嫌われるが気になって仕方ない)というものがあります。
それらに加えたいのは、去勢または性依存なのかもしれません。
フロイトによれば、人間は子供の時からすでに性的な欲求はあり、もしかしたら、すでに母の胎内の中の羊水の中に浮かんでいること自体も、性的な欲求に含まれるのかもしれません。
支配者である母親がこんなことを言ったことがあります。
「お前をもう一度切り刻んで、お腹の中に戻して、産み直してやろうか」
支配者が親にしろ、宗教にしろ、その他のものにしろ、支配者の支配は、性的なものが中心にあるのは間違いないようです。
性的なものをタブーにして、支配される人を去勢してしまうか、性的虐待をして、性依存にしてしまうかです。
去勢と性依存は別なことのように見えますが、ひとつのことのようにも思えます。
性的なものを一切禁じてしまって、外面上、性的なものがなくなればなくなるほど、内面では性的なものでいっぱいになるからです。
逆に、性依存で性を謳歌しているように外面的に見えても、内面では性的なものに対する嫌悪で満ち満ちているからです。
私の場合は、母親に、性的なものがどんなに汚らわしい薄汚いものであるかを嫌というほど教え込まれてきました。そして、どんなになくそうとしてもなくならないので(外面的には性的なものとは無関係に振る舞ったところで、内面的には性的なものに惹きつけられることがなくならない)、自分が男性であることを憎み、呪いました。
そして、性的なものをゼロにしようとして、キリスト教に入信しましたが、その矛盾はますますひどくなるばかりでした。
教会の周りの人は、牧師も含めて、そんなことと無関係に生きているようにしか見えません。
そんな悩みを持っているのは、自分だけのようにしか思えないのです。昔のクリスチャンのことを書いた書物には、実際に、物理的に去勢したことが記述されていましたが、さもありなんと思いました(今でも、キリスト教が盛んな韓国には、去勢をしてくれる医者がいるそうです)。
そうやって苦しんで苦しんで、ついには、鬱になって、そういう欲求がまるで起こらなくなった時、『ああ、これで自分は性的なものから解放されたのだ』とホッとしました。
情欲を抱いて女性を見るものは姦淫を犯したのと同じであるという聖書の言葉をやっと破らないで済むと思ったのです。
ところが、鬱になった時、私はクリスチャンである前の妻と結婚していましたが、なんとそのクリスチャンの妻に性的な交わりをできないことを罵倒され、離婚されたのです。
今、考えると当然とも言えますが、結婚前は、どんな性的な交渉もしないように自分を抑えに抑え、そうした挙句、性的に不能になった自分を、今度は、結婚後に罵倒する前の妻も、妻の両親も、他のクリスチャンも、本当に理不尽に思えたものです。
自分は、ついには鬱になって、去勢状態になってしまったのですが、そうではない例もあります。
逆の方向に、性依存に走る人もいますが、先ほど言ったように同じことです。
心に支配者の支配と邪魔を排除してもらっていくと、正義中毒、承認欲求の暴走から解放されていくだけでなく、去勢と性依存からも解放されていきます。
なぜなら、性的なものは無意識さんの中にある生きるエネルギーだからです。
もはや、「いやらしい、汚らわしい、スケベ!」と言われても、
「スケベですが、それがなにか」と答えるのです。