支配者同士は相争います。
「こいつは私のものだ」「いや、私のものだ」と争うのです。
そうして、支配者は支配者と、宗教は宗教と、スピリチュアルはスピリチュアルと…相争うのです。
例えば、同じキリスト教でも、カトリックとプロテスタントで血で血を洗うような闘争を繰り広げてきたことは有名ですし、プロテスタントの中でも違う教派は争うし、正統と異端の争いもあります。
そこに、争いがあるならば、支配者と支配があるのは確かだと思います。
心は支配者ではないから争いません。
私とあなたが仲違いしたとしても、私の無意識とあなたの無意識は争うことはありません。
なぜなら、心は無限の愛だからです。
心は、「従わなければならない」と求めてくることは決してありません。
「お前は私に従わなければならない、さもないとひどい目にあうぞ」と言ってくるのは、心の声ではありません。
それは、支配者の声であって、心の声ではありません。
支配者の声には、従うならいいこと(幸運、祝福)が、従わなければ悪いこと(不運、呪い)が起きるという条件がついています。
心の声には、そんな条件はついていないのです。
私が、心の声に従おうと従わまいと、無意識は本来の私であり、私を見捨てることはなく、私の味方です。
例えば、私がまだクリスチャンだった時には、神の声を聞いていました。けれど、神の声に従うことができなかった時には、『ああ、自分は神のみこころから外れてしまった』という恐怖と罪悪感を感じたものです。神の声には、私を従わせる強制力が、従わなければ何か悪いことが起きるという予感がつきまとっていました。
けれど、心の声には、そんな強制力や予感はないのです。
心は、私が今、心の言うことに従えなくても、私を悲しんだり、イライラしたり、私を見放すことは決してないのです。
「それも今のあなたの選択ね」と、選択しないことも含めて私の選択を軽く認めてくれるのです。
心は、賢明な親友のようなのです。
かと言って、心は「何でもいいよ、おーよしよし」と言ってくるわけではないのです。
時には、はっきりズバリと言ってくることもあります。
しかし、はっきりと言ったことを押し付けたり、脅して従わせようとはしません。
心は、私を自分の意志を持った大人として扱います。
決して、私に対して、親のような役割はとりません。
はっきりと言ってしまえば、それを何度も蒸し返したり、「自分の言うことを聞けば全てうまくいくのに」などとは言ってきません。
そういう意味では、心はあなたの最善のカウンセラーであるとも言えます。
だからこそ、人ではなく、心にこそ、何でもどんなことでも打ち明けることができるのです。
追記
たとえ、宗教であっても、信仰があろうがなかろうが、全ての人が差別なしにもう救われていると、そういう無条件の愛を説くものがあれば、それは支配者からくるものではないかもしれません。
H神父の万人救済主義はそれに近いと思います。
それは、無意識の無条件の愛と同じものなのかもしれません。
けれど、支配者と支配が跋扈する宗教世界の中で、そう説くことはどれほどの邪魔を受けるかと思うと、大変なものがあります。