無意識さんとともに

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支配からの卒業〜私が私であるために 13 ターニングポイント⑴

私が小学生の頃、ノストラダムスの大予言が出版された。

誰も彼もそれをはっきりと信じた訳ではないが、それでも漠然と、世界は1999年に終わるのではないかという気持ちがどこかしらにあった。

中学生になると、ユリゲラーが来て、超能力ブームが始まったのを覚えている。みんながスプーンを曲げようとしていた。

それから、コックリさんが流行り、私たちも例に漏れず、紙の上に50音を書いて、コックリさんをやった。

ある時、友達とコックリさんをやっていて、友達が「この人は(私のこと)いつ死にますか?」と聞いて、「今日の夜、12時に」と答えが返ってきた。

そんなことあるはずがないと思うのだが、それでも怖くて、夜の12時をかなり過ぎるまで眠れなかったことを覚えている。

同時に、姓名判断や手相占い、ホロスコープ、タロットカードなんかも流行っていた。

今、考えると、そんなことにはまっている私たちはだいぶ変わった子供のような気もするけれど、その頃は、クラスのかなりの生徒がそういうものに興味を持っていた。

UFOを呼ぼうとしたり、幽霊を見たり?、いろいろなことを経験して、それはそれで面白かった。

そのうち、高校に入ると、私は図書委員会に入ったのだが、そこにはMさんというクリスチャンの女の子がいた。

確か、日本人と台湾人のハーフで、いつもニコニコ笑っていて、決して人の悪口を言わない、そんな子だった。

折しも、今度は、キリスト教作家が一種のブームになっていて、三浦綾子とか遠藤周作とかが読まれていた。少なくとも、図書委員の誰もが、三浦綾子の『塩狩峠』や遠藤周作の『沈黙』を読んでいたように思う。

図書委員は、上も下もなく、男女の区別もなく、いつも司書室に入り浸っていて、仲が良かった。

私たちは、何でも話したり、議論したりしていた。

そのうち、Mさんの影響を受けて、教会に行き、洗礼を受けるものが現れた。

果ては、化学の先生さえクリスチャンであることを告白して、Mさんも加わって学校に聖書研究会が結成された。

私は、決してクリスチャンにはなるまいと思っていたが、不思議な体験をしたりして、後輩に高校近くの教会に連れて行かれ、22歳で洗礼を受けた。

私が洗礼を受けた時、Mさんは『あり得ない』と驚いたそうだ。

そうして、ノストラダムス、超能力、オカルト、占い、スピリチュアルと来て、キリスト教に行ったわけだ。

もちろん、キリスト教は、私がそれ以前、信じたり興味を持ったものを否定している。それらを否定して、私はキリスト教に入った。

にもかかわらず、私の中ではそれらはある意味、連続している。

そうして、キリスト教の世界に38年間いた。

プロテスタントから始まって、カトリック、そうして正教も覗き見て、キリスト教の世界は裏も表も経験した。

奇跡としか思えないようなことも何度となく経験した。

牧師になろうと思いつめていたこともある。

けれど、それ以前のものと同じく、どんな素晴らしい不思議な経験をしても、天国に昇るような多幸感があっても、私の心はいつもジェットコースターのようで安定することがなかった。

それは私ばかりではない、私の親友はある大教会の副牧師になったが、衝動的に縊死をして亡くなった。

もちろん、そういう時にキリスト教は、決して教えのせいにはしない、人間のせいにする。

「神は全知全能で、キリスト教の教えは完全だけれども、人間は不完全で罪深いからね」

それだけではない。

私は、キリスト教の世界の中でパワハラを受けて、鬱になった。

そのことについては詳しく書こうとは思わない。

そうして、私は難治性鬱の状態で、O先生の「支配されちゃう人たち」を読んだ。

人間に3つのタイプがあること、心に支配と邪魔を排除してもらって心に聞くことができることは衝撃だった、眼が覚める思いだった。

それでも、私は38年間信じてきたキリスト教を捨てようとは思わなかった。

きっと、いいキリスト教と悪いキリスト教がある、あるいは、キリスト教にもいいところと惡いところがある、そんなふうに思っていた。
けれど、O先生の本を読み進めるうちに、「神という言葉は支配者につながる」という言葉が飛び込んできた。

神という言葉を使わずに、どうやって信仰を続けていけばいいのか?

神ではなく、父という言葉を使えばいいのではないかと、一応、自分で自分を納得させた。
また、その時点では、私は、フロイトではなくユングに親近感を持っていた。
フロイトは全てを性から説明しようとしているように思えて、ユングがそのことを批判するのももっともなことに思えたからだ。
さらに、フロイトには、宗教はもちろんのこと、占い、スピリチュアル、超能力などの入りこむ余地はないが、ユングはむしろ、そういう世界と地続きであることが感じられたからだ。
でも、何だか、今ひとつすっきりはしなかった。

もちろん、FAPを受け鬱は劇的によくなり、前に比べれば大きく変化しているのだが、それでもモヤモヤがいつもあるような気がした。

心に聞いても、はっきりしたことを言ってくれることもあれば、何だか心に嘘をつかれているように感じることもある。

そんなモヤモヤを抱えているうちに、O先生の「無意識の旅」で親子関係における支配の話をされていた。
私は質問を思いついて、これはどうしても聞かなければならないことのように感じた。
それは、『キリスト教でも、父なる神と人間である子供のように親子関係を言いますが、これはキリスト教の限界ですか』というものだった。

私は、おそらく、限界ですという答えが返ってくるものだと思っていた。

ところが、答えは『いや、(キリスト教の)限界ではなく、(キリスト教の)支配です」というものだった。

青天の霹靂だった。