支配者は神のような存在だと言えるかもしれない。
そして、敵艦に突っ込んでいく特攻隊員が最後に「お母さん」と叫び、西欧人であれば死の間際に「神様」と言うように、支配者にも、母親なる女神と父なる神がいるのかもしれない。
支配者が神のようなものだと思えば、当然ながら人は恐れを抱く。
また、支配者は支配しようとする人たちに対して恐れを抱かせるように行動する。
はなはだしい場合は、暴力や暴言、愛や優しい言葉、お金、性的なもの、洗脳やマインドコントロールを使って。
だから、支配される人たちは、支配者を神のように、あるいは悪魔のように、思ってしまう。
何だか、いつも監視されていて、自分のことは全部まるっとお見通しのような気がしてびくびくする。
思い出すのは、子どもの頃、自分の買いたいものが買えなかった。
こづかいの範囲なのに、何を買ってきても、母親にネチネチと文句を言われる。
たとえ、カバンの中に隠すようにして買ってきても、尋問されてついには買ったものを懺悔してしまう。
「隠していてもわかるんだから、無駄なあがきをするなよ」とよく言われたものだ。
何だか、母親がまさに、全知全能の神のような気がしたものだ。
また、仏教のマーラのことはわからないが、聖書の悪魔はおそらく支配者への恐れが生み出した描写のような気がする。
「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」や障子に映る影を化け物と思ったりするのとあまり変わることなく、私たちは、支配者がとんでもなくものすごい力を持った恐ろしいものにまで膨らましてしまう。
けれど、支配者は、神でも悪魔でもなく、単なる人間なのだ。
もちろん、支配者は、支配することがお仕事であり、支配することに快や不快の感情を感じないという点からすれば無敵であると言えるが、それでも単なる人間だ。
心に支配や邪魔の排除をお願いして支配や邪魔が減っていくと、支配者は神のようなものから小さくなっていく。
そしてついには、等身大のちっぽけなものに変わっていき、あれほど恐れていたその恐れがいつの間にやら、消失していることに気づくのだ。
そうすると、もはや支配者は、路上に転がっている石のようなものになる。
わざわざ、石に足をぶつける必要もない。石は、またいで進んでいけばそれでいいのだ。ただ、それだけのことである。