無意識さんとともに

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鬱からの回復(回復へのロードマップ)11〜支配と邪魔を排除するステージ②

さて、「心に支配と邪魔を排除してもらうこと」を続けていくと、次のステージに行きます。このステージを目標として続けるのではなく、続けていくと、自然、このステージに入っていくのです。

 

①のステージでは、支配者への恐れ、そして時に、支配者への愛(執着)が心を占めていました。ところが、「心に支配と邪魔を排除してもらうこと」が進んでいき、呪いの束縛が緩んでいくと、支配者への怒りが噴き出てきます。

 

実は、恐れと愛(執着)の下にはもとより怒りがあったのです。けれど、祝福を約束する呪いの言葉によって怒りは出てこないように、塞ぎ込まれていたのです。

 

この怒りが出てきた時に、支配者が埋め込んでいた第二の言葉の罠が発動することもあるかも知れません。

曰く、「怒ってはならない」「怒りは身を滅ぼす」「怒りは毒である」などなど。

そんな、埋め込まれた言葉によって、支配者は直接、自分が裁くのではなく、支配される私が自分で自分を裁くように仕向けます。

 

例えば、私が思い出すのは、何とか支配から脱しようとしている私に、心に爆弾を投げ込んでくる毒親の母の姿です。

ようやく、少し心の安定を得ている私に、母は執拗に攻撃をしかけます。

最初はやり過ごしているのですが、そのうち、耐えきれなくなって怒ると、「ほれ、見たことか」「何も変わっていないじゃないか」と言われます。

私は、少しうまくいくように見えても、必ず叩き落とされて、『ああ、やっぱり、自分は何も変わっていない、こんなことをしてもだめだ』『自分はどうしようもない人間なんだ』と、自分で自分を延々と裁き続けるのです。

 

けれども、支配者が、常識が、宗教がつく嘘で、これほどひどい嘘はありません。

この嘘で、「お前は私を離れては決して生きられない」という呪いの解除を全力で妨げているのです。

 

怒りは当然のことです。

のみならず、怒りは、支配者との絆を断ち切る伝家の宝刀であり、生きる力そのものでもあるのです。

 

支配と邪魔の排除をしてもらうことで、隠れていた怒りが出てきたことは、本当に、喜ばしいことなのです。

 

なぜなら、この怒りのエネルギーを使って、私たちは支配と邪魔の排除をしてもらうことに集中するエネルギーを得るからです。

そればかりではなく、この怒りによって、恐れと愛(執着)はあらかた駆逐されます。支配者は恐れたり愛したりするに値する存在ではないことがはっきりするのです。

支配者の虐待に屈して、いつの間にか、心が一部支配者の味方になっていたことから解き放たれるのです。支配者は、恐れるのでも愛するのでもなく、怒るべき存在です!

支配者は加害者であり、私は被害者であるというのは真実です。

ここがはっきりしないで、支配者にもいいところはあったとか、自分にも良くないところがあったとか考えることは、それこそ、支配者の惑わしであり、支配そのものなのです。

というわけで、この怒りを伝家の宝刀にして、支配者の絡みつく臍の緒を、心に排除してもらうことで、決定的に断ち切っていくのです。

 

のみならず、この怒りのエネルギーを認めることで、今まで、鬱々として生きることができなかった自分に、生きるエネルギーが戻ってきます。

 

支配者は、「怒りは、抑えれば、祈れば、行をすれば、これこれをすれば…消える」と大嘘を言いますが、怒りは決して消えることはありません。

抑え込まれた怒りは、消えることなく、自分を破壊するのです。

怒りは生きる力そのものです、怒りを否定すれば生きる力はなくなります。

 

例えば、神父や牧師、クリスチャン、修行僧など、怒りを否定する人たちほど、生きる力が感じられず鬱が多いのはこれが原因だと思います。怒りが生きる力そのものであれば、その怒りを否定しては、生きることなどできるはずもありません。呼吸はしていても死んでいる状態になるのは当然のことだと言えます。

 

ですから、「心に支配と邪魔の排除をしてもらうこと」をして、怒りが出てきたら喜びましょう。

そして、怒りをじっくり味わいましょう。

必ず、この段階をじっくり味わってから、次の段階に進むことが大切なのです。

怒りの大切さをなおざりにしては、次に進むことは不可能だと思います。

 

附記

日本人は、怒りを抑える傾向があるように思います。

それなのに、支配者は怒りをあらわにします。人が支配者に従わないと、怒って脅迫するのです。

それだから、そういう支配者に虐げられてきた私は、教えや常識になお加えて、『ああいう支配者のようには、怒りを表すまい』と自分でも思ってしまうのです。

これも一種の罠とも言えます。

怒りに、2種類あります。

支配者の怒りと虐げられたものの怒りです。

支配者は、実は、本当の感情を持っていません。

本当は喜ぶこともなく、怒ることもないのです。

けれど、人を支配するために、感情があるかのように振る舞います。

怒りも怒りがあるかのように振る舞い、人を支配するためにそういう見せかけの怒りを利用するのです。

そうすることによって、人を直接的にも間接的にも、二重に縛ります。

直接的には、人を脅すことによって相手を支配し、

間接的には、まさに、怒りに相手を怯えさせることで、相手に怒りは恐ろしいもの、悪いものだという考えを植え付け、相手が自分自身の怒りを利用して、支配者のもとから去ることをブロックします。

ですから、支配者の親とか、宗教的指導者とかは、自分たちは、支配されている人たちを怒りを持って脅しているのに、支配されている人たちには、「怒りは悪いものだ、罪だ、毒だ」と教えていること、まさにダブルスタンダードが見られるのですが、それはまさにこのためです。

こういう支配者の見せかけの怒りと、支配されている人たちの怒りは、決して混同されてはいけません!

支配者の怒りは見せかけの偽の怒り、罠に捕えるための怒り、人を破壊しエネルギーを奪う怒りですが、

支配されている人たちの怒りはリアルな当然の怒り、支配の鎖を砕くための怒り、まさに生きるエネルギーそのものなのですから。