無意識さんとともに

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支配からの卒業〜私が私であるために 16 ターニングポイント⑷ Down to earth

今の私が求めているのは、head in the clouds(ふわふわとしている)ではなくて、down to earth(地に足がついている)である。

不思議や奇跡と呼ばれるものならば、嫌というほど体験してきた。

一瞬で、耳の聞こえない人が癒されるのを見たこともある。

そして、私自身がそういう熱狂の渦の中に巻き込まれてきた。

その中には、天国に生きながらにしているかのような多幸感はあった。

けれども、そういう熱狂は時間が経つと、何も残らない。そればかりか、高揚した分だけ落ち込むのである。

あとは、灰しか残らない。

そして、自分自身の変容は起こっていない、大地に足を踏み締めて繰り返される毎日を歩む自分ではなく、イカロスのように天を目指したが翼が溶けて地に落下した自分がいるばかりである。

宗教における不思議や奇跡、占いで未来を知ること、超能力、霊能力、オカルト、スピリチュアルなどユング的なものがないと言っているのではない、

それらがあるとしても、それらは本当に人間を変えることができるのかと言いたいのだ。

それらは、落ち着かせ、心を静め、凪にし、淡々と毎日を歩む力を与えてくれるのかと言いたいのだ。

私の答えはNOである。

もちろん、私の答えを信じるべきではなく、ひとりひとりの人生で答えを出すことが必要なのだ。

そして、無意識さんはそういう高揚と熱狂の中にはいないと私は思う。

なぜなら、私が知る無意識さんは、まさに、繰り返される毎日を足の裏に感じながら、周りの景色を味わいながら、しみじみと歩んでいく力を与えてくださる方だと感じているから。

そこから振り返ると、あの熱狂も高揚も多幸感も、魅惑的なものであればあるだけその分、支配が及んでいるものであったようにしか見えない。

道元は、『眼横鼻直』(目は横に、鼻はまっすぐ)、『春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬は雪さえて冷しかりけり』と言った。

無意識さんは、『ないようである、あるようでない』驚きであり、その無意識さんと対面した時に見る私は、本来の私であり、世界は本来の世界であり、それがそのまま飄々とした驚きなのかもしれない。