無意識さんとともに

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催眠の現象学26 待ちぼうけから歩み出す

昨日のリフレクティングチームによるオープンダイアログで、私がクライアント役をさせていただきました。

私が話した悩みは「人に嫌われるのがこわい」ということでした。

ブログでこのテーマでつい最近も書いたことがあるし、一応の解決は得たようなつもりになっていたのですが、悩みと言えば浮かんでくるのはこのことです。

私にはずっと自己犠牲がやめられないというのがあるのですが、自己犠牲の奥に、「人に嫌われるのがこわい」ということがあると、前に心が教えてくれていたのです。

自己犠牲をして相手に好かれようとするのですが、そうすればそうするほど、相手にむしろ嫌われるとというそういうパターンです。

皆さんの話を聞いて、まず、頭に浮かんだのは、高校生の頃、人と待ち合わせた場面です。

私は、夏休みに、高校の校門である人と待ち合わせていたのですが、1時間、2時間、3時間…と待ってもいっこうに相手は来ません。

その頃は携帯電話もなく、しかたなしに、公衆電話から電話するのですが、相手は留守で連絡もとれません。

普通なら、もう諦めて帰るところでしょうが、私にとって相手の人はとても大切な人で、そんなことができませんでした。

そうして、6時間ぐらい経った頃、ようやく相手と連絡がつきました。

「あれっ、今日じゃなくて来週の日曜日じゃないの」

相手はあっさりそういうのです。

「確かに、今日だと言ったんだけどな」

「来週の〇〇日と言ってたわよ」

話は平行線です。それで、ちょっと気まずくなって電話を切りました。

問題は、それからです。私たちは、非常に仲のいい友達だったのですが、そのすれ違いをきっかけに、少しずつ疎遠になっていったのです。

そうはなりたくなかったのですが、そうなっていったのです。

その後の人生でも、似たようなこと、場合によっては、もっと激烈なことが繰り返し起こりました。

みんなの話を聞いているうちに、芋づる式というけれど、本当に、引っ張るとひとつの芋、その芋を引っ張るとまた次の芋という具合に、埋もれていた記憶が甦ってきました。

痛みがないわけではなく、痛みはあるけれども、心地よい痛み、何かを解放してしまう痛みという感じです。
そうして、わかったのは、自分は、それ以後の出来事も含めて、今もあの校門で誰かを待ち続けていたのかもしれないなあということです。

自分の人生の流れをストップさせて、誰かを待ち続けて、動かない時の中で待ちぼうけの人生を送ってきたということです。

でも、このことに気づいた時に、私の時間は動き出し、私の人生も流れ出したのです。

それが、私にとって誰かを待ち続けるという自己犠牲をやめて、誰かの人生ではなく、自分の人生を歩き出すということのようなのです。
『ああ、内省って自分でするものというより、気づきが起こってきた時に、その気づきを受け入れた時に、無意識さんが気づきというスコップを使って私を掘り起こしていくものなんだな』と。
そう言えば、リフレクティングチームのリフレクトって内省するって意味だよなと。
今朝は、やたらと朝日が眩しく感じました。

私はまた新しく生まれ変わったのかもしれません。