自己犠牲がなかなかやめられない気がするんです。
知らないうちに自己犠牲してしまって、後から『ああ、結局、自分は利用されただけなんじゃないか』と嫌な気持ちになってしまいます。
自己犠牲って2種類あるのかもしれません。
ひとつは、長年、支配者の支配のもとにあって、支配者に自己犠牲を強いられてきたその自己犠牲。
これは、他者犠牲とワンセットの自己犠牲。
支配者が私に他者犠牲を強いて、私が支配者に自己犠牲をするんです。
もうひとつは、支配者に自己犠牲を強いられてきた私が、他の人に進んで自己犠牲をするということです。
これは、もう習い性になっているのかもしれません。
人に自己犠牲をしないでは、人と関係を結べない、そんな気になっているのかもしれないと思うのです。
ただ、これにはもうひとつ奥がある気もします。
直接的な支配者は、自己犠牲なんて決してしません。いわば、堂々と正面から人を支配し、人に犠牲を強います。
ところが、直接的な支配者に支配された人は、今度は、人に自己犠牲をすることで相手を縛って、間接的に相手の支配者になろうとしているような気がします。
直接的な支配者は人を自分のコピーにしようとしますが、間接的な支配者は人と共依存関係に陥ってドロドロに溶け合おうとするのかもしれません。
自己犠牲は美しく語られます。
高校生の時に、三浦綾子の「塩狩峠」が流行りましたが、自己犠牲をする主人公がどれだけ美しく見えたことでしょう。
佐藤優という作家が、キリスト教がカルトと違うのは自己犠牲を説いているからで自己犠牲は何よりも尊いなんて言っています。
キリスト教だけではありません。
家族のために、友達のために、会社のために、人のために、みんなのために、国のために、世界のために、神のために、進んで自分を犠牲にする物語はあちらこちらに溢れています。
人は、そういう物語に触れて、心を打たれ、涙をし、自己犠牲をして生きようとするかもしれません。
しかし、そういう物語は、全て、支配者が人を支配するために作った物語に違いありません。
そして、一旦、そういう物語に支配されてしまった人間は、今度はお互い同士、束縛し合い、互いを捨てて、ひとつになるために(「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」とか「国中、一丸となって」とか「神の兵士として」…)、自己犠牲の物語を自ら作り出すのかもしれません。
けれど、心に支配と邪魔を排除してもらい、心とトランスの中で出会い続ける人は、支配者に自己犠牲をしないのはもちろん、他の人に自己犠牲する必要は一切、ないのです。
本来の私である無意識さんを知ってしまったら、自分はこの本来の私とひとつになっていくのであって、人(支配者であっても、それ以外でも)とひとつになっていくことにまるきり、興味が持てなくなるからです。
もはや、孤独のように見えても、孤独ではない。
ひとりでいるようであってもふたりであって、無意識さんと共にいるからです。