それから、私は彼らと、毎週、カラオケで礼拝することになった。
メッセージは持ち回りのはずだったが、いつの間にか、一番年上の私がすることになっていった。
教会学校で、小学生や中学生を前にしてお話ししたことはあるが、少人数とは言え、大人の前で話したことはない。
とにかく、準備するしかない。
聖書の箇所を決めて、50回ぐらい読み込む。
あとは、キリスト教書店で買ってあった註解書やら参考書を読んでいくが、鬱で朧な頭に難しいことは入るわけはなく、彼らが自分に求めているのもそんなことではない気がする。
だから、ただひたすら、祈るしかない。
すると、最初のうちは、原稿をノートに書きつけて、それを見て話していたのに、原稿を作らないでも言葉がするすると自分の口から出るようになってきた。
これが預言というものだろうか?
それだけでなく、そんなことをしながら、自分が鬱になったことと、自分が話すことを、自然と結びつけようとするようになった。
『神様がいるなら、なんでこんな目にあうのだろうか?』
『本当に、神様は愛なのだろうか?』
聖書を読み込むにつれて、聖書で描かれている神は、ジキルとハイドのような二重人格のような神のような気がしてくる。
いや、二重人格というよりも、癒すためにまず傷つけ、赦すためにまず裁き、救うためにまず滅ぼす、そういう恐るべき神が描かれているような気がしてならないのだ。
それが、リアルな神ならば、それでも私は神を信じるのだろうか?
そんな神を一体、誰が正気で信じていられるだろうか?
もし、そういう神を信じることができたとしたら、そういう神を信じている人間も、恐るべき人間、愛を口にしながら人を平気で傷つけることのできるそういう人間になるのではないだろうか?
そう思うと、あの牧師のことを理解できるような気がした。
彼は聖書そのものを、その矛盾のまま信じようとしたから、いや信じたから、ああいうことができるのではないだろうか?
頭の中に、彼がまだ小さな頃や小学生の頃、10代の頃の姿が浮かんできた。
彼とは、同じ教会学校で、よく遊んだものだ。
彼は、私にとっては優しいお兄ちゃんだった。
そんな優しいお兄ちゃんを変えたのは何なのか?
聖書だ。
私は聖書を読み込めば読み込むほど、そう結論せざるを得なくなった。
けれど、そんなことを、一緒に礼拝している彼らにも、もちろん、光にも漏らすことはできなかった。
それを漏らして仕舞えば、私は悪魔と呼ばれるかもしれない。
私は、鬱だから考えすぎているのかもしれない、それでも、私はこの考えをストップすることができずに、昼も夜もこのことについて考えていた。