私は、男性の友達があまりいたことがないのです。
まあ、あまりと言うからには、過去に何人か、男性の親友がいたこともあったのですが、何だかことごとく疎遠になってしまったのです。
昨日は、そのひとりのことを、久しぶりに思い出しました。
彼とは、自分がキリスト教にどっぷり浸かっていた頃の、同じ信仰を持っていた親友です。
おそらく、10年以上、付き合いがあったと思います。
最初は、同じ教会にいましたし、二人でいろいろな聖会(有名講師のキリスト教の集会)にも行きました。
そうして、今、思い返すと、彼と話したことはすごくたくさんあったはずなのに、自分がどう思うとか感じるとか、そう言う話をすることがおそらく一度もなかったような気がします。
私たちは、借り物の言葉で(つまり、聖書の言葉で)、どちらが(信仰的に)上なのか、マウントの取り合いだけしていたのかも知れません。
けれど、私が鬱になって、そんなマウントの取り合いが出来なくなった時が、縁の切れ目でした。
最後の電話での彼の怒鳴り声だけが、今でも私の鼓膜に残っているのです。
数年前に、ある夜、急に寂しくなって、彼の電話にかけたことがあります。
呼び出し音が虚しくなり続け、彼が出ることはありませんでした。
留守番電話に変わった時、それでも私は彼と、「昔は…だったよね」とそんな話をできることを信じて、自分の電話番号とともに、メッセージを吹き込んだのですが、ついぞ、彼から折り返しの電話が来ることはありませんでした。
昨日、そのことを思い出し、胸が痛くなったのですが、それと同時に、つまり痛みと同時に、心と体が軽くなったような気がしました。
私と彼は友達ではなかったのかも知れないという、今まで見たくない真実が浮かび上がってきたのです。
二人ともキリスト教の支配(全てのキリスト教がそうだとは言いませんが、私たちは確かにキリスト教の支配の中にいたと思います)の中にいて、ちょうど、磁場の中に置かれた鉄片のように、また、お互いがお互いに、支配という磁力を及ぼし合っていたのかも知れません。
私はそれが友情だと思い込んでいたのかも知れません。
もしかしたら、支配から出ることは孤独になる道なのかも知れません。
そうして、時には友情や愛情という名の支配が懐かしくなることもあるでしょう。
けれど、支配から抜け出て、自由の道を歩んでいたら、その道を同じく歩む仲間に出会うこともあるのです。
痛みは、いつの間にか、消え去って、すがすがしい風が胸の中を通り抜けていきました。