次の週から、私は藤堂さんとふたりきりでいつものカラオケで礼拝することになった。
さすがに、若い女性とふたりきりと思うと、おかしな雰囲気にならないかと自分のことを案じたが、メッセージを語りだすと、没頭してしまって、そんな心配はどこかに吹き飛んでしまう。
私は、自分と、今は、藤堂さんに説き聞かせるつもりで、全能の愛である神について、語り続けた。言葉は次から次へと、淀みなく溢れ出てきた。
「神様が全能の愛であるなら、キリスト教を信じている人と信じていない人を差別する神であるはずはありません。
むしろ、キリストはすべての人の隔ての壁を壊したとあります。
だから、自分は神を信じていると誇り高ぶる人も、神という名前も知らずに苦しみの中で祈る人も、同じように神に近いのです。
いや、自分はこれだけ信じているのだから神に近いはずだと思う人よりも、神を知らないと思っている無神論者の方が、神に近いのです。
私は、神を信じていると、誇り高ぶり、神を信じていない人を見下す人が信じている、その神とは、本当の神様でしょうか?
そうではありません。それは、信仰者の偶像である神なのです。
神様は、信仰者の思いより、はるかに高く、果てしなく広く、底も知られないほど深いお方です。神様の全能の愛は、信仰者の思いを限りなく超えているので、信仰者には理解できないのです。
今、自分は神を信じてきたのだから、神に近い、神を信じる私は天国行きで、信じない人たちは地獄行きだと思ってきたその罪を悔い改めて、真実の神様、全能の愛の腕の中に立ち返りましょう。
その全能の愛の腕の中にはすべてがあるのです。
信仰を持っている人も、信仰を持っていない人も、知らずして、その腕の中におり、全能の愛の腕の中からこぼれるものは、誰一人としていないのです。
祈ります…」
私は、自分で話していて、話せば話すほど、気持ちが楽になってきて、それだけでなく、ついには涙さえこぼした。
そうして、なんだか、体の底から脱力して、フーッと息を吐いたが、気がつくと、藤堂さんも同じことをしている。
そうだ、神がいるならば、私たちは、こんな神様を求めていたのだ。
もう、支配者の神、虐待者の神、裁判官の神はいらないのだ。
私が藤堂さんとふたりきりで礼拝していることは光には言わないでおいた。
変な誤解を受けたくなかったし、それにも増して、光がこういう全能の愛である神様を理解できるか自信がなかったから。