こだわりこそが自分なんだと、そう思ってきたふしがあります。
それで、自分のこだわりを人にかき乱されると、まるで自分が攻撃されたように思ってしまうのです。
特に、本に対するこだわりはものすごいもので、どうやら、私は本を自分の友達、もっと言えば体の一部だと思ってきたようです。
ですから、前の部屋で、もう本が入りきれなくなった時(一時は、本をベッドのように敷き詰めてその上に寝ていました)、本を売らざるを得なくなった時、まるで、自分の肉を切り裂いて売るような痛みを感じたものです。
そうやって、ある日、古本屋で、棚を見た時に、何だか心がひどく惹かれる本に出会ったのです。
手にとって、パラパラとめくってみると、本の終わりに、自分の名前が書かれていたのです。
びっくりしましたが、どうも私が売った本が、巡り巡って、店頭に並んでいたようなのです。
そうして、私はもはやその本を読んだことさえ覚えていなくて、初めてその人に会ったかのように、その本に出会ったのでした。
よくよく考えると、私の母親もまた、こだわりがものすごい人でした。
米も鮭も、どこどこの何々と決めていて、それ以外は口にしようとしないのです。
してみると、私のこだわりもまた、ある意味で母から受け継いだものに違いありません。
もっとも、こう言ったとて、こだわりそのものが悪いのではないかもしれません。
こだわりそのものよりも、『こだわりにこだわること』、それが問題の根っこなのかもしれません。
そうして、この問題の根っこを自分で引き抜こうとしても、なかなかうまくいきません。
なぜなら、また、自分の『こだわりにこだわることをやめること』にこだわってしまうのですから。
ところで、無意識さんには色がありません。
無意識さんは透明なのです。
と言っても、他の色を拒絶する透明ではなくて、青があれば透明なまま青になり、赤があれば透明なまま赤になり、緑があれば透明なまま緑になるのです。
ですから、私があるところにも、無意識さんは、こだわりにこだわる私のまま、私になるようなのです。
透明な無意識さんは、こだわりに、こだわりにこだわることに、こだわりにこだわることをやめることにこだわることに…こだわり続ける私そのままに、知らず知らず、私にしみ入るらしいのです。
そして、ハッと気づいた時には、時すでに遅し。
私はこだわってもいいし、こだわらなくても、どちらでもいいんだと、そんなことをふと思っていたりするんです。