自分の中に、いろいろなこだわりというか、これはこうでなくちゃいけないというものがたくさんあったんです。
それが、この1年で、急速になくなっていったんです。
例えば、大嶋メソッド以外ダメとか、現代催眠やエリクソニアン催眠はいいけど伝統催眠はダメとか、フロイトはまだいいけどユングはダメとか、スピリチュアルや宗教はダメとか…
(私の過去のブログを読んでいる方はよくご存知だと思いますが)
そんな、これは⚪︎でこれは×という判断というか、裁きが消えていっているんです。
変節はなはだしいわけで、恥ずかしい気持ちにもなります。
けれど、無意識さんを知れば知るほど、いや、無意識さんに知られれば知られるほど、そんなこだわりや判断や裁きはどうでもよくなってしまうんです。
なぜなら、無意識さんは、『なんでもあり』の方だからです。
無意識さんにあっては、なんでも、意識や、無意識を否定するものさえも、包まれ、浸透され、存在をゆるされているのです。
だから、この無意識さんに触れれば触れるほど、浸されれば浸されるほど、こうじゃなくちゃいけないという脳も体も緩んで、何をそんなにいきりたっていたんだろうと、ハッと気づくわけなんです。
これは、どうやら、物事に対してばかりではないようです。
前は、人に嫌われるとショックだったんですが、もちろん、今でもショックなんですが、無意識さんは私を嫌いな人も、または逆に、私が嫌いな人とともにいて、包み、導いていることがだんだん身に染みてきているんです。
だから、私が嫌われても、私が嫌いでも、それはごく小さなことなんだと思うようになってきているんです。
嫌われても無理して好かれよう、嫌いでも無理して好きになろうとしなくていいのです。
無意識さんは、好きという思いだけではなく、嫌いという思いも利用して人を、本来の人に変えるように導くからです。
『全ては、無意識さんが作り出す物語』で、その物語は、人の数だけ、刻々と移り変わる瞬間の数だけ、時間という川の流れの中を、さらさらと流れてゆくんです。