外在化と内省はどちらも必要であり、その時々においてふさわしいものがあります。
例えば、自分で自分を責めてしまうという責めが止まらない場合、内省ではなく外在化がふさわしいのです。
そんな時に内省しようと思っても、反省になってしまい、さらに自分を責める思いが無限に増殖してしまい自分を破壊することになってしまいます。
そうではなく、この責めは『誰かに入れられたもの』と外在化することが大切であり、有効です。
そうして、事実そうなのです。
自分で自分を責める、自分がしていることなのに、自分が止められないというのは変ではありませんか?
それは、他人に入れられているからなのです。
あなたを支配しようという人は、あなたの声を装って、あなたを責める思いを入れているのです。
だから、自分では止めることができないのです。
そんな時には、『神のものは神に、カエサルのものはカエサルに』と自分のものではない思いを自分のものではないと外在化して、分離し、自分ではない人にお返しすることが必要なのです。
けれど、また、例えば、自分が誰かを責める思いが止まらない場合は、外在化ではなく内省がふさわしいのです。
そんな時は外在化しても、『あの人のここが悪い、あそこも悪い』とさらに責める思いがとめどもなくなりどうしようもなくなってしまいます。
そうではなく、内省して、深淵を見つめ、自分の破壊欲動と性欲動を知らされて、相手に投影している自分の影を見ることが大切であり、有効なのです。
その時に、自分が誰かを責めるということは、実は相手という鏡に投影している自分を責めていることであることが知らされて、人への責めが止みます。
内省は、自分にとっては痛いものですが、そうやって、初めて無意識と意識は統合されていくのです。
このように、外在化と内省はどちらも必要であり、その時々においてふさわしいものがあるのです。
それだけではありません。
内省と外在化は連続しており、相補的であるとも言えます。
なぜなら、内省して、他人という鏡に自分の影を見て、他人への責めが止んだとしても、それがすぐさま内省から反省に変わってしまって、今度は自分への責めに変わってしまうことがあるからです。
その時は、今度は、外在化の出番です。
自分への責めを外在化して、自分から切り離し、支配しようという人にお返しするのです。
あるいは、外在化して、自分への責めを自分から切り離すと、今度は自分を支配しようとする人への責めが止まらないということもあり得ます。
その時は、また、内省の出番なのです。
人への責めを内省して、自分の影を相手に見て、人への責めから解放されるのです。
そのように、内省ー外在化ー内省ー外在化…と繰り返し、私たちは無意識さんの手の中で、本来の自分へと帰っていくのです。