以前は、エリクソンは神のような存在として、崇め奉っていたのかもしれません。
ところが、今回、エリクソニアン催眠ワークショップに参加して、こんな話を聞きました。
エリクソンは、クライアントから、自分の催眠はここをこうしたらもっと良くなるという点、フィードバックを必ずもらっていたと。
そうして、若い時には、そうやってフィードバックをもらって、クライアントから「ひどい」とか「下手くそ」とか言われることもあったということです。
私もこの話を聞いて、ワークショップの練習中に、お相手の人からフィードバックをもらってみました。
1回目で聞いたのは、こんなことでした。
「何だか、深く催眠に落ちてしまうようで、何回か手汗をかきました。もう少し入るトランスの深さを調整できませんか?」
この方は、後で講師への質問で、この同じことを違う形で表現していました。
「半強制的に、催眠に入れられているようで」
それを聞いて、前の自分ならかなりのショックを受けたはずですが、なぜか、とってもその理由を知りたいと思いました。
そうして、2回目でその方とは別の、オブザーバーをしていた方とあたり、その人に催眠誘導をさせていただいて、感想をいただきました。
「オブザーバーで聞いていた時はわからなかったけれど、一文の中では言葉の合間がとられているけれど、文と文の合間があまりとられていなくて、感じというか、余韻を味わう余裕を与えないみたいです」
これは、目から鱗のフィードバックでした。
それで、3回目には、文と文の合間をゆっくり開けてみると、格段に違う催眠誘導になったようでした。
しかも、3回目の練習では、また別のある方が催眠誘導するのをオブザーバーとして観察させていただいたのですが、これがまたびっくりすることでした。
その方は、もしかすると、初心者なのかもしれませんが、催眠誘導中に、クライアント役の方の表情、姿勢などをしっかり目を開けて観察しながら、相手のタイミング、相手の状態に合った言葉出しをしていたのです。
さらに、講師の方が言っていたような、「そうですね、いいですね。その感じを十分楽しんで」というような合いの手を、ところどころ入れていました。
クライアント役の方は目を閉じているのですが、明らかに、クライアント役とセラピスト役の間で、催眠誘導中も、相互のコミュニケーションがなされているようでした。
『そうだ、催眠のメソッドやテクニックを学ぶ以上に、このことが催眠の肝なんだ』、そんなふうに思わされました。
…
そうして、このことと関係あるのかないのか、エリクソンや他の人たちを神にしていたら、学ぶことはできないという当たり前のことが頭に閃いたのです。