無意識さんとともに

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子どもの質問にビビる

私が教会学校で教えた時に、子どもからされた強烈な質問がある。

「イエスさまもうんこしたの?」

その時、私はためらって答えられなかった。一緒にいた他のクリスチャンも答えられなかったように思う。

一応、キリスト教の教義では、「イエス・キリストは神にして人」となっているから、もちろんしたよと答えていいはずなのだが。

「イエスさまはうんこしたよ」と言うのをためらわせるものは何か?

人間であるとは、食べたり、飲んだり、排泄物を出したり、交わったり、子どもを作ったりということを含んでいる。

ところが、人間が神に祭り上げられるとは、そういう人間であることが抹殺されるということだ。

「イエスさまもうんこしたよ」と答えられなかった私は、イエスをキリストとして神に祭り上げることによって人間としてのイエスを抹殺しているのだ。

けれども、それは私だけではなかったようだ。

「かつてはキリストを肉によって(つまり人間としてのイエスを)知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい」

とは、キリスト教を実質的に作ったパウロの言葉である。

つまり、キリスト教とは、イエスを神への生贄として神に祭り上げることで、イエスを救い主キリストにし、人間としてのイエスを抹殺することで作られた宗教である。

でも、これはキリスト教だけの話ではないかもしれない。

古来から、日本でもあるいはどこでも、人が神への生贄として殺されてきた。

そして、神への生贄として殺される人は、神聖なものになり、神になる。

生贄は、まだ性的に交わったことのない人であった。つまり、そういう生贄は同じく、人間として抹殺されて生贄にされる。

さらに言うと、これは象徴的には家庭においてさえ繰り返されているかもしれない、ネグレクトされ、まともな食事を与えられず、良い子であることを強制されている子どもは、親が神に捧げる犠牲の子羊として、人間として去勢され、抹殺されて、神にされているのかもしれない。

しかし、私たちは、無意識さんの導きによって、神から人間に戻ることができる。

そして、イエスも、もはや、イエスをキリストとして神として崇める教会に閉じ込められることなく、匿名のイエスとして今も道行く多くの人と出会っているのかもしれない。