健全な疑いというのは、必要だと思います。
なぜなら、疑いがあることで、ひとつの物語から別の物語へ、ひとつの価値観からもうひとつの価値観へと、チャンネルを切り替えることができるからです。
ところが、信仰というのは、ある場合、この健全な疑いというのを封殺したところに成り立ってしまうのです。
そうすると、ひとつの物語に、絶対的なある価値観に閉じ込められてしまい、そこからしか物事を見れなくなってしまうからです。
「真実はいつもひとつ」とはコナン君のセリフですが、私たちはひとつである真実を、特定の物語、価値観を通してしか見ることができないのです。
そうして、特定の物語と価値観を信仰してしまえば、容易に、そこから見たものを唯一絶対の真実にしてしまい、
他の人が見ている真実を排除しようと争い合います。
もちろん、真実を見るためにつくられた物語や価値観には、それなりの意味があって、そこには真実の煌めき、断片があるのでしょう。
しかし、信じ込んでしまうことは、その真実の煌めきの貴重な断片を取り出すことではなく、むしろ、そこに付着する屑を含めて丸々飲み込むことによって、その真実や煌めきさえも葬り去ってしまうことになりがちです。
健全な疑いこそが、煌めくものとそうでないものを見分けて真実の断片を取り出し、また、疑いによってチャンネルを切り替えることで、さらなる断片を取り出すことができるのではないでしょうか?