無意識さんとともに

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聖人A 25 燃える愛?

そのことがあった後、僕は、いつも、自分のすぐ右に誰かがいるようなそんな感じを覚えるようになった。

神谷先生はテープの中で言っていた。

「『見よ、わたしは世の終わりまであなた方と共にいる』と。このわたしは誰ですか?

一切の罪に勝利し、あなたという罪人に勝利し、復活したイエスです。

このイエスがあなたと共にいてくださるのです。

このイエスがあなたと共にいてくださるのだから、もうあなたは恐れることはないのです。

神の全能の愛であるお方が共にいるのだから、あなたは愛の人なのです」

僕は、自分が神の愛で燃えているような気がした、心も体も。

そうして、イエスがそうだったように、僕も愛そのものとなってどんな人も愛そう、愛し抜こうと思った。

そう思ったら、僕は異常に親切になった。

学校で皆が掃除をさぼっていてもひとりで掃除をした。いじめられている生徒がいたら、自分が代わりにいじめられても、かばい続けた。人が何か自分の持ち物を欲しいと言ったら、僕は迷わず与えた。

前も優等生であろうとして同じようなことをしたことがあったが、今度は僕の心が明らかに違っていた。僕の心は、愛?と呼ばれる火で燃え盛っていた。

いろいろな人の不幸をこの身に受けたいと思った。皆のゴミ箱になりたいと心の底から思うようになった。

僕は祈った。

「神様、皆の不幸や苦しみや悲しみを、その人たちに負わせないで、代わりに僕に負わせてください。僕は、あなたの愛を誰よりも知りたいのです。そのために、この世の全ての不幸、苦しみ、悲しみを僕に集中してください」

何だか、目の前にいるひとりひとりの心が手に取るように見える気がした。

目の前にいる人の心が見えてきて、具体的な不幸、苦しみ、悲しみがヴィジョンで見えてくる。

僕の共感力は異常なぐらいに高まっていた。

中1の夏休みに、アンネ・フランクの『アンネの日記』を読む宿題が出た。

僕は読んでいるうちに、本の中のアンネと同一化してしまって、号泣と嗚咽が止まらなかった。家族に怪しまれないように、布団の中で声を押し殺して泣いた。

さらに、中3の時に、あるアイドルが自殺した。

僕はそのアイドルを何とも思っていなかったのだが、自殺のニュースを知った次の日、僕は貯金をはたいて、彼女のレコードを全て買い集め、昼となく夜となくレコードを聞き、彼女のために祈り続けた。

疲れ果てて眠っても、彼女がビルの階段を駆け上がり飛び降りる夢を見た。僕は夢の中でも彼女のために必死に祈り続けていた。

そんなことを続けていくうちに、ふっと軽くなって、祈りは聞き入れられたと感じた。

こんな調子だったから、かえって人に気持ち悪がられるようになった。

もちろん、このことが起こってから僕は再び、教会に行くようになった。

牧師は神谷先生とは違うタイプだったが、僕のことを可愛がってくれた。

そして、長老をはじめとして、神谷先生のことをいまだに慕う年配の人たちは、僕をまるで神谷先生の再来のように、特に可愛がってくれた。

高1の時に、僕は牧師に呼び出された。何事かと思ったが、牧師は僕にこう言った。

「教会の多くの人が、君にも1ヶ月に1度、説教をしてもらいたいと望んでいる」と。

催眠!青春!オルタナティヴストーリー 148〜U47 距離

その後、ぼくたちはカリブの海賊に乗った。カリブの海賊は乗っている人を怖がらせる仕掛けがいくつもあるのだが、はまっちは当然、怖がることということはなく、かえって喜んで笑った。

そうして、中学生にも手が届く値段の手頃なパスタを食べ、スターライトマウンテンにも乗った。目の前に広がる光の奔流と激しいアップダウン、ぼくはこういう乗り物に弱くて、降りる時、終わったかとホッとした。

「うえっち、もう1回、乗ろうよ」

「えっ」

「もう1回乗らない?」

はまっちは、ぼくの顔を覗き込みながら、無邪気に言う。

「もう1回ね」

そう言われると断ることもできず、ぼくは頷くしかなかった。

結局、スターライトマウンテンには3回乗った。

「大丈夫?」

「全然」

ぼくは思い切りの笑顔で答えたつもりだが、笑顔になっているのかどうか。

「わたしの我儘に付き合ってくれてありがとう」

「はまっちの我儘に付き合わせてもらってありがとう」

そんな言い方をすると、はまっちはぶっと吹き出した。

「うえっち、少し休まない?」

「うん、それがいいと思うよ」

「ちょっと待っててね」

「うん」

はまっちは駆け出して人混みの中に姿を消した。

『どこに行ったんだろう?』とぼくは何だか心細くなった。こんなことぐらいで心細くなるんだから、これから先はなどと情けないことを考えている自分がいるのに気づいて、驚いた。

「待った?はい、これ?」

はまっちは持っていた2本のうち、1本を渡してくれた。

「これって、チュロス?」

「そう、わたしの我儘に付き合わせたお礼。ほんとは、ただうえっちと一緒に食べたかったんだけどね」

「ありがとう、はまっち」

「あそこのベンチに座って食べない?」

ぼくたちは、ダークブラウンのベンチに座った。ぼくの右にはまっち。

目の前に多くの人が楽しそうな様子をして通り過ぎる。ぼくたちは、しばらく、ぼうっとただその姿を眺めていた。

「いつか、また、ふたりでここに来たいね」

「そうだね」

「でも、その時はふたりではなく、3人だったりして」

「よせよ」

そんなことがあるのだろうか?そんなことがあるとして、それは一体、どれぐらい先のことなのだろうか?

「そうだ、これからは呼び方を変えようか?」

「どうして?」

ぼくはショックを感じた。

「だって、わたしたち、友達に戻って大人になるんだもの」

「…」

「これからは、うえっちではなく、上地君と呼ぶことにする」

「じゃあ、はまっちを浜崎さんと呼ぶことになるということ?」

ぼくはますます情けないことに、目の端に涙が溜まってきているようだ。こらえなくっちゃ。

「練習、練習。上地君」

「浜崎さん」

急に、はまっちがどこか遠くに行ってしまったような気がして、胸が激しく痛む。

「そんな顔しないで、わたしも決心が揺らいじゃうから」

「わかった」

その時、賑やかな音が聞こえてきて、人の群れがそちらの方に流れ始めた。

「パレードが始まったみたいよ、行きましょう、上地君」

ぼくは答えることもできずに、はまっちの後を見失わないようについていった。

人間の3タイプ〜3−1光の人

虚無は光の人に憧れを持っている。反対に、光の人は虚無に憧れを持っている。

言い換えれば、普通の人は例外者に、例外者は普通の人に憧れを抱くということである。

普通の人の本質は、無である。

対して、光の人の本質は、鏡であらわされる。光の人の本質が光というわけではない。虚無の人は光の人の本質が光であると思って、光の人に憧れるのであるけれども。

人間の本質は、究極的には、虚無であろうと、光の人であろうと、無なのである。

そのことに変わりはない。

けれど、光の人が違うところがあるとしたら、光の人は光を反射させる無、つまり鏡なのである。

鏡自体は何ものでもない。

鏡自体は何かであるわけではない、そういう意味で、からっぽという意味の虚無とは異なっても、それも一種の無なのである。

鏡は何かを映し出すことによって、初めて何ものであるかのように見えるのである。

だがしかし、鏡自体は何ものかであるわけではないのだ。

ブッダは虚無であり、イエスは光の人だった。

そして、ブッダは自分が無であることを悟ったのだが、イエスは一般的に神と呼ばれる光そのものを映しだすことによって神の子と呼ばれるようになった。

人々は、イエスを光そのもの、神そのものであると崇めた。しかし、イエスは鏡であって、イエス自身は神そのものでも、光そのものでもない。

だから、鏡である光の人は、自分が光の人であると主張しない。

そこに映る光は、自分ではないのだから。

それだからこそ、イエスは自分が何ものであるかをいつも隠しておくように弟子たちに言ったのだ。

自分は、光の人であると主張する人たちは、光の人ではない。

なぜなら、そういう人たちは鏡の役割を果たさないから。

鏡は自分を透明にすることによって、光をそのままに反射することができる。

けれど、鏡が鏡の存在を主張しようとして、自分をそこに映すなら、そこに光は映らない。
そういう鏡は、実は、初めから鏡ではなかったのである。

自分を透明にすることは、何ものでもないことを選び取ることになる。

そういう意味で、何ものかではないのだから、孤独になることは免れないのかも知れない。

だから、光の人は、むしろ、多数の人と睦見合って暮らす虚無に憧れるのである。

光の人は、神を信仰する宗教と関係を持つとは限らない。

むしろ、光の人が宗教と関係するなら、大きな苦痛を味わうかも知れない。

なぜなら、光の人が照らし出す光は、多くの宗教家が神だと主張するもののが光ではなくかえって闇であり、救済者ではなくむしろ支配者であることを明らかにしてしまうからである。

エスがそうされたのと同じように、宗教家たちは光の人を忌み嫌って排除しようとするかも知れない。

そのことを知っている光の人は、宗教とは関わろうとはしないだろう。

むしろ、孤独のうちに、ひっそりと佇む灯台として、凪いでいても荒れていても、昼間でも闇でも、淡々と光を照らし続けることだろう。

 

人間の3タイプ〜2−1虚無

最も多くの割合を占めるのは、光の人でもなく、支配者でもなく、虚無である。

虚無の本質は無であるということだ。

無とは、からっぽ、何もない、無限ということである。

からっぽ、何もないということが、どうして無限ということになるのか?

瓶の中に水が入っていて蓋が閉めてあれば、そこには決まった量の有限な水があるだけのことである。

ところが、蓋のついていない、からっぽの何も入っていない瓶を海に投げ入れれば、海の水はからっぽの瓶の中に満ちる。

そして、蓋をしていないのだから、瓶の中の水と瓶の外の水とは区別できない。

まさに、瓶そのものが海そのものとなり、海そのものが瓶にあると言うことができるかもしれない。

これを短く言えば、無即無限(無即ち無限)と言ってもいいのではないだろうか?

何もないからすべてのものを持っており、すべてのものを持っているようでありながら何も持っていないように軽やかである。

だから、虚無の人は、本来、誰にも支配されず、誰をも支配しない。

からっぽであるがゆえに果てしなく青く澄み切って広がっている大空を飛び回る。

ただ、虚無の人は、海の中にある瓶が自分の中の水と自分の外の水を区別しないのと同じように、あえて他の人と自分を区別しない。

一体感に生きることが本質なのである。

そういうわけで、空を飛び回るにしても群れとなって飛んでいく鳥であり、海を泳ぎ回るしても群れをなして周遊する魚である。

その時、虚無の人はいいようもない幸福感を感じる。

その一体感は、いわゆる依存ではなく、「我あるが故に他もあり、他があるが故に我もある」というブッダの言う縁起である。

お互いに微笑み合って、お互いに影響し合って、相互交流のもとに生きていくそういう一体感である。

そこには、なんとも言えない、馥郁たる香りが満ちており、全てのものがリラックスして、自分が自分でありながら他と睦みあって生きる世界である。

虚無の人であるブッダが亡くなった時は、光の人であるイエスが十字架で死んだとのは違って、弟子たち、多くの人たち、多くの動物たちさえも、ブッダを取り囲んで嘆き悲しんだという。

虚無の人は、支配者や光の人と違って、普通の人であるかもしれない。

しかし、まさに普通であることによって、普通の人である多くの人と多くのものを分かち合って、同じ空気を呼吸し、同じ親しさのうちに生きることができる。

「最も偉大な人は普通であることに徹した人である」という言葉をどこで耳にしたかわからないが、ありのままのただの人として生きることほど、美しく幸福なことはあり得ない。

 

人間の3タイプ〜1−1支配者

支配者とは、支配することがお仕事だと言われる。

そこには、善悪という切り分けは入り込む余地がない。

支配者が悪であって、虚無や光の人が善ということではない。

そういう善悪という切り分けなしに、支配者はただ支配するのである。

支配者が支配する時には、必ず、性的なものが絡んでくる。

私は、支配者は自分のコピーを作るために支配してくるのだと思っている。

だから、たとえではあるが、ある種の生物と同じように、支配される人のうちに自分の卵を産みつける。

支配された人は、自分の中に孕んだ卵に自分のエネルギーと存在を食べ物としてせっせと与え続け、ついには支配者の卵が孵化し、支配された人を食い破って、支配者が誕生する。

まさに、このようにして、支配者は自分のコピーを再生産していく。

そうやって、支配者のコピー(間接的な支配者)と成り果てた元虚無や元光の人は、まさに支配者とそっくりであって、支配者の言葉遣い、行動、ついには仕草や顔つきまで似てくる。

特にブラック企業やカルト的な宗教団体を思い浮かべてみれば、社員や信者が支配者である社長や教祖にどんなに似ているか、具体的にわかるかもしれない。

また、言わば、最小限の単位である家族でも、支配者である母親や父親は、支配される自分の子どもが自分に似ていることを喜ぶものである。

よく、歳をとって、だんだん親に似てきたなどと言われることがあるが、よくよく考えてみればそれがどんなにゾッとするものであるかわかるかもしれない。

支配者をいいとか悪いとかいう切り分けはできないと言ったが、支配者は、そういう寄生生物のようなものである。

それが彼らの生まれつきの習性なのである。
彼らは、支配することに喜びも悲しみも後悔もない、そのことに一切、感情を抱かない。

そして、支配者も心理学とか催眠とかをあえて好むかもしれない。

それは全く不思議なことではない。

ある人たちは、自分が癒されるために、また人を癒すために心理学や催眠を学ぶのであるが、支配者は人をうまくコントロールして支配するために心理学や催眠を学ぶのだから。

そして、そういう支配者を憎んでも無駄である。

いや、憎むのは仕方ない。

けれど、支配者は人が憎めば憎むほど、その憎しみを利用し憎しみでぐるぐる巻きにして、そこに自分の卵を産みつけようとする。

だから、近くにいて憎み続けるより、離れることが大切なのだ。

支配者はそういう生物として、関わりを持たずに生きられるなら、離れるのが一番よい。離れることができないなら、そういう生物として扱うしかない。

誰が支配者であるかは、心に聞くしかない。

だが、時に、私にとっての支配者があなたにとっては支配者でなかったり、あなたにとっての支配者が私にとって支配者でなかったりする。

そういう揺らぎが実際にある。

そういう揺らぎがあっても、心に聞いて、私にとっての支配者から私は関係を絶って離れた方がいいし、あなたにとっての支配者からあなたは関係を絶って離れた方がいいことは確かなのだ。

人のことはどうでもいい。

心はあなたにとって必要なことを教えてくれるのだ。

聖人A 24 奇跡?

女性が先立って入り、パチンとライトをつけた。

明かりがつくと、昼間なのにカーテンは完全に閉められており、6畳ぐらいの洋室のフローリングの中央に、直接、布団が敷かれていて、たっちゃんはパジャマ姿で向こうを見ながら座っていた。

あたりには、『敵の要塞を破壊せよ』とか『霊の戦いに勝利せよ』とかいう奇妙なタイトルの本が転がっていた。

そして、何よりも目立って見えたのは、枕元に、三方金縁の聖書が置いてあったのだが、二つに裂けて、ページはビリビリに破られていた。

「この頃、ずっとこうなんです。話しかけても、首を縦に振るか、横に振るかだけで、まともに話してくれません。牧師先生や教会の人も訪ねてくれるんですが、誰にも会おうとはしないんです」

「そうなんですか」

「ほら、達也。お友達が来てくださったからお話ししたら」

たっちゃんの両親はたっちゃんとは別の教会に行っていたから、僕のことはよく知らないらしい。

たっちゃんはそう言われてもしばらくは固まったままだったが、ついに何か決意したらしくゆっくりおずおずと体の向きを変えて、僕の方を見た。

僕の知っているたっちゃんとは別人だった。

それは、単に、神の霊が宿ったあの権威あるたっちゃんとは別人というばかりではなく、僕が小さな頃から日曜学校で知っているたっちゃんとも完全に別人のようだった。

「たっちゃん」

僕は呼びかけた。

すると、たっちゃんは、蛍光灯の灯りの下で青白いというか薄緑にさえ見える顔を歪ませて、にっと笑った。

僕の恐怖の対象であり、憧れの対象でもあったたっちゃんがこんな姿になっていることに、僕は何だかほっとしており、同時に、落胆もしていた。

その時、僕の心臓から何だか熱いものがほとばしる気がした。

それは、みるみるうちに、全身に広がり、さらに喉を通り、顔にまで昇ってきた。

僕は、燃えるような神の愛であり、憐みに自分が燃やされているように感じた。

そして、たっちゃんのところに駆け寄り、たっちゃんを力いっぱい抱きしめた。

『もはや、僕には怒りも憎しみも嫉妬もない』

僕は自分で自分に感動していたのだ。

たっちゃんは驚いて僕の顔を見つめた。

「ごめんね、ごめんね、ごめんね…」

「いいんだ、いいんだ、たっちゃん」

僕は、さらに力を込めてたっちゃんを抱きしめた。

そして、自分の中から熱い火の塊が言葉となって噴き上がってきたようだった。

「全能の愛である神様、僕たちのような罪人にすぎないものをあなたの命を注いで愛してくださり感謝します。

あなたの愛は、全能であって、罪人を義人に作り変えるほどに力を持ったものです。

今、あなたの愛をたっちゃんと私に注いでください。

まことの親である神よ、ここにいるあなたの子どもにあなたの真実の愛を注ぎ、あなたの親密な愛の中に目覚めさせてください。

私たちを恐れさせる神と名乗る偽りの霊よ、イエスの御名によって言う。

たっちゃんから出ていけ!」

たっちゃんは号泣し始めた。

そしてしばらく泣いた後に顔を上げると、みるみるうちに、顔に血の気が戻ってきて、目が輝き出した。

そこには、僕が昔から知っているたっちゃんがいた。

『僕は勝利した、いや、神が勝利したのだ』

僕は何だか笑いたくなった。

 

催眠!青春!オルタナティヴストーリー 147〜H47 風船

ディズニーランドに着いて、まずしたかったのがシンデレラ城の前で写真を撮ることだった。何よりもうえっちと一緒の写真を撮りたかった。

うえっちは何だかごついカメラを持ってきていた。

手つきが慣れずたどたどしい、それが何だか可愛らしい。

『ああ、自分ってうえっちのこんなところも好きだったんだなあ』

そんなふうに思ってみたりもする。

ちょっとからかってみると、うえっちは顔を真っ赤にして辺りをきょろきょろ見回している。何だか、胸がキュンと締め付けられて、ますます可愛らしく思える。

でも、男の子なんだから、そんなこと思ったら失礼かな。

あのゴンドラの中のことも思い出してしまった。うえっちはずっとずっとわたしの心の中に住んでいる、これからもずっと…そうだ。

人に頼んで、うえっちと一緒の写真を撮ってもらった。

うえっちはぎこちない。わたしは思い切り距離を詰めて、うえっちの手を握り、そして、シャッターが押されるその瞬間に、頬にキスした。

これぐらいしてもいいよね。

近くにいた外国人の男性が、わたしたちを見て口笛を吹いた。

それが何だかうれしかった。うえっちは気づいたのかな。

それから、わたしたちは、まず、プーさんのハニーハントに乗りに行った。

そんなに混んではいなかった。

「そんなに混んでいなくてよかったね」

うえっちは何だかまだぼうっとしているようだった。わたしが魔法にかけてしまったのかな。

「子供連れやカップルばかりだね」

「えっ、そうだね」

「わたしたちもカップルに見られているんだろうね」

「うん」

うえっちはちょっと小さな声で言う。

程なくして、番が回ってくる。

「気をつけてお下がりください」

キャストの人が言う。

これも可愛らしいカートに、ふたりして乗り込む。

「行ってらっしゃいませ」

カートの中はそんなに広くない、自然、わたしはうえっちと体をくっ付けることになる。なんだか、自分の心臓の鼓動だけでなく、うえっちの心臓の鼓動まで聞こえる気がする。

蜂蜜の香りが漂ってくる。

「この蜂蜜の香りって本物なのかな?」

「どうだろうね、本物だったら面白いけど」

「蜂蜜の香りって単純にいい香りって言うんじゃなくて、何だか頭がジンジンする香りだね」

「そうかもしれないね、花から取られているのに、花の匂いとはまた違うね」

どうでもいい会話、けれどどうでもいい会話がとてもとても貴重なものに思えてくる。

プーさんは青い風船を握って森の中を飛びながら進んでいく。

そうやっていつか森を抜けるのだろう。

わたしたちも無意識の風船を手にして、心の森の中を飛んでいる最中なのかもしれない、出口を目指して。