最も多くの割合を占めるのは、光の人でもなく、支配者でもなく、虚無である。
虚無の本質は無であるということだ。
無とは、からっぽ、何もない、無限ということである。
からっぽ、何もないということが、どうして無限ということになるのか?
瓶の中に水が入っていて蓋が閉めてあれば、そこには決まった量の有限な水があるだけのことである。
ところが、蓋のついていない、からっぽの何も入っていない瓶を海に投げ入れれば、海の水はからっぽの瓶の中に満ちる。
そして、蓋をしていないのだから、瓶の中の水と瓶の外の水とは区別できない。
まさに、瓶そのものが海そのものとなり、海そのものが瓶にあると言うことができるかもしれない。
これを短く言えば、無即無限(無即ち無限)と言ってもいいのではないだろうか?
何もないからすべてのものを持っており、すべてのものを持っているようでありながら何も持っていないように軽やかである。
だから、虚無の人は、本来、誰にも支配されず、誰をも支配しない。
からっぽであるがゆえに果てしなく青く澄み切って広がっている大空を飛び回る。
ただ、虚無の人は、海の中にある瓶が自分の中の水と自分の外の水を区別しないのと同じように、あえて他の人と自分を区別しない。
一体感に生きることが本質なのである。
そういうわけで、空を飛び回るにしても群れとなって飛んでいく鳥であり、海を泳ぎ回るしても群れをなして周遊する魚である。
その時、虚無の人はいいようもない幸福感を感じる。
その一体感は、いわゆる依存ではなく、「我あるが故に他もあり、他があるが故に我もある」というブッダの言う縁起である。
お互いに微笑み合って、お互いに影響し合って、相互交流のもとに生きていくそういう一体感である。
そこには、なんとも言えない、馥郁たる香りが満ちており、全てのものがリラックスして、自分が自分でありながら他と睦みあって生きる世界である。
虚無の人であるブッダが亡くなった時は、光の人であるイエスが十字架で死んだとのは違って、弟子たち、多くの人たち、多くの動物たちさえも、ブッダを取り囲んで嘆き悲しんだという。
虚無の人は、支配者や光の人と違って、普通の人であるかもしれない。
しかし、まさに普通であることによって、普通の人である多くの人と多くのものを分かち合って、同じ空気を呼吸し、同じ親しさのうちに生きることができる。
「最も偉大な人は普通であることに徹した人である」という言葉をどこで耳にしたかわからないが、ありのままのただの人として生きることほど、美しく幸福なことはあり得ない。