無意識さんとともに

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AとBとC 第十回〜洋服売り場

A2

 

私は怒りに満ちていた。内側に怒りのマグマをためていた。そして、その怒りの破壊欲動は時に噴火して現れることになったのだ。

 

私は服を買いに行くのが苦痛だった。洋服売り場に行くと冷や汗が流れる。そのため、同じ服を何年も着ていた。あるいは仕方なく買いにいかなければならない羽目に陥った時には、買うものを見つけるやいなや、ダッシュしてレジに駆け込み、売り場から逃げるのが常だった。

 

思い返してみても、母はネグレクトであり過干渉であった。この二つは同時に成り立たない気がするが、よくよく考えてみるとコインの表裏の関係である。子供は自分の支配する所有物であり、気が向かなければ放置、気が向けば過干渉、全ては親の気分次第である。

 

「あなたは小さい頃は本当にいい子だったのよ、手がかからなくて。」

そう何百度、言われたことだろう。

 

母は、自分の食べたいものを、自分の食べたい時にしか作らない人だった。そのため、食事がまともに三食あったことはなかった。あったとしても、それは塩分も糖分も多すぎる、健康とは程遠い食事だった。

だから、私には小さい頃から常に大きな緑と白の縞模様の円筒形の缶を持たされていた。

「お腹が空いたら、そこからお菓子を取り出して食べなさい。」

それは母が留守の時だけではなく、母が家にいる時でさえ、つまり母が食事を作るのが面倒くさい時もそうするようにという意味である。

幼い私は、もちろん、反抗できるわけもなく、缶に入っているお煎餅やビスケットを食事として食べていた。

そのことを指して、母は『手のかからないいい子』と言っているのである。

 

しかし、幼い私のうちに怒りがなかったわけはなかったと思う。

 

例えば、親が留守の間に、私は、扇風機やラジオやら家の電気製品をドライバーでバラバラにし、また母親の使っている鏡台の鏡を割ったりしていた。

 

そういう行為を好奇心の現れだと思っていたが、おそらく、怒りの現れだったのに違いない。

 

また、4歳の時に妹が生まれたが、私は寝ている妹の顔にタオルをかけた。大事には至らなかったが、これもまた、単なる嫉妬ではなく、怒りの現れ、破壊欲動だったのだろう。

 

けれど、自分で自分の怒りを自覚するようになったのは、もう少し後の、5歳ぐらいのことである。

 

「服を買いに行かなくちゃね。」

 

私にとってこの言葉ほど、恐ろしい嫌な気持ちを与える言葉はなかった。

なぜなら、私が『この服が欲しい』と言っても、母は私が欲しいと言っている服の欠点をあげつらい、決してその服を買ってくれず、ただひたすら自分が私に着せたい服を求めて、毎日、5、6時間、来る日も来る日も、店から店へ私を連れ回すからである。

 

そして、ある日、私は母が買ってきた茶色(幼い私は『う○こ色の嫌な色』と思っていた)のタートルネックのセーターをハサミでビリビリに切り裂いた。

 

その時ほど、怒りと憎しみをはっきり感じたことはなかった。

 

だから、服売り場に行くと冷や汗が流れるのも、いまだにタートルネックが着れず、それどころかシャツが首に触れるとどうしてもそれを引っ張って伸ばそうとするのはそのせいなのだろう。