笛吹きケトルに少量の水を入れ、蓋をぎゅっと締め、火にかけます。
すると、水は熱せられて蒸気に変わり、ケトルのつぎ口を通って笛を鳴らせます。
ただ、それだけのことだと人は思うかも知れません。
せいぜい、笛が鳴って沸騰していることを知らせるぐらいだと。
蒸気機関車を見たことがありますか。実際には見たことがない人でも、動画で見たりしたことはあるかも知れません。
もうもうと煙をはき、汽笛を鳴らし、勇猛果敢に走っていく姿はある種の感動と畏怖を与えることもあるでしょう。
そして、蒸気機関車は大勢の人を運んでいます、ある者は出張のために乗り新聞を読み、ある者は家族と一緒に旅行のために乗り、家族と共に笑い合い、ある者はただ蒸気機関車に乗る楽しみだけのために乗っています。
蒸気機関車の周りの景色も次々に変わっていきます。ビルが立ち並ぶ都会から、家々がひしめく郊外へと移り、さらに光に煌めく海と海岸へと、また一面に山と田んぼが広がる田園へと移り変わっていくでしょう。
また、天候もいろいろです。ある時は真っ青な空の下を走り、重く垂れ込めた雲の下を走り、豪雨の中を走り、吹雪の中を走ります。
どんな景色、どんな天候の中でも、蒸気機関車は変わらず力強く、飽きることも疲れることもなく走っていきます。
そのような蒸気機関車を動かしているものは何でしょうか。
それは、蒸気機関と言われるもので、蓋をぎゅっと閉めて熱した笛吹きケトルと同じ原理です。ただの蒸気ではなく、蓋で抑えられ圧縮された蒸気があのような爆発的な力を生んでいるのです。
このように何の役にも立たないと思われた圧縮された蒸気が、蒸気機関が、それまでの人力に変わる力として、工業や船舶などに生かされ、人間が摩耗するだけの手工業制の時代から、人間の労力を用いない自動化を可能にする産業革命を起こす起爆剤となりました。
ところで、ふと、ある子供のことを思い出します。
その子は、クラスの生徒たちにいじめられていました。いじめられて怒りが溜まっていたのです。
そうして、誰も見ていないところで、自分で自分を殴り頬を腫らし、先生の元に行き、いじめっ子にやられたのだと言いました。そうして、自分の溜まった怒りを解消しようとしたのです。
しかし、そうしても、いじめはますますひどくなるばかりで、また自分が嘘をついた罪意識にも悩まされ、どんどん元気がなくなっていきました。
そんなことをしたのは、怒ること自体恥ずかしい、みっともない、悪いことのような気がしていたからです。
けれど、そうやってさらにどんどん怒りが溜まってさらに抑えられて、限界を超えた時、ポーとケトルの笛が鳴るように、汽笛が新たな旅の合図を告げるように、その子は顔を真っ赤にして、まるで身体から湯気が出るように、いじめっ子たちを追いかけ回したのです。
いじめっ子たちは「わーい、蒸気機関車だ」と囃し立てましたが、その日からその子をいじめる者はいなくなりました。
抑えられた怒りは決して悪いものではなく、リソースであり可能性であり、心の産業革命を起こすために、爆発するその日を待っているのかも知れません。