無意識さんとともに

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AとBとC 第十四回〜父の名の不在と去勢

A2

 

父のことも書いておこう。

 

父との思い出はあまりない。職人で、筋肉質で、奥目の顔つきをしていた。無口で、人を信じやすく、何かにつけ人を疑ったら悪いと考えるような人だった。

 

だが、子どもの私にとっては父は影が薄く、何を考えているのかわからない不気味な存在だった。

 

訳も分からず、急にこめかみを殴られたり、柔道技で投げ飛ばされたことがあった。その時はまるで何もわからなかったが、今にして思えば、私が父を馬鹿にして小生意気なことを言ったに違いない。

 

馬鹿にしていたのは、明らかに母の影響もあった。

「私は美人でひくて数多だったのに、どうしてかハズレくじを引いてしまった」

「持ってくるものが少ない」とか、常に父を軽蔑し、軽んじていた。

 

そのせいかどうか、幼い頃、大阪に愛人をつくって、その元に逃げたのだが、しばらくして戻って来た。

しかし、それからは針の筵だったのかも知れない。私と妹を味方につけ、毎日、父親の悪口を延々と聞かせた。私は、自然と父を親と言うより、敵と思うようになっていった。

また、それだけではなく、母は、男というものが、男の性というものが、どんなに醜く悪いものであるかを繰り返し繰り返し教え込んだ。

そのうち、私は、自分が男性であること自体を憎むようになり、性というものを忌み嫌うようになった。

 

時折、父が隠し持っている成人誌を棚の奥に見つけると、ますます父に対する侮蔑は強くなり、またそう思いながら、その中身を読んで性的妄想に耽る自分を激しく憎んだものだった。

そうして、私は一種の去勢状態に陥っていたのかも知れない。高校2年生の時にMさんというガールフレンドがいた。

私は彼女を聖女のように扱っていたが、彼女はごくごく普通の、性に興味がある女性だった。今でも、彼女のくりくりと好奇心に満ちた瞳と弾けそうな淡い青のシャツの胸の部分を覚えている。

彼女は、何回も2人きりになりたがった。うちで2人きりで勉強もしたし(その時はなぜか、母親が買い物に行って帰って来なかった)、K平霊園の草の茂みに2人でいたこともあったし、果ては、野栄昭如の「エロ事師たち」という本を貸してくれたこともあった(おそらく、私に対するMの性教育だったのだろう)。それでも、私は何もしなかったし、できなかった。もちろん、制欲がなかったわけではない。けれど、私は純粋という言葉に取り憑かれていて、知ってかしらずか、恋愛から性というものを完全に切り離していたのだ。言い換えれば、去勢されていたのだ。

Mがそんな私をとっと見捨てて、普通の男の子の元に行ったのはいうまでもない。

 

父の話に戻ると、最後は呆気ないものだった。

糖尿病になり、糖尿病になっても、母は全く無視して砂糖と塩分を使いすぎの食事を食べさせ続け、さらに心臓病を併発した。

気の弱い父は、精密検査のためのカテーテルを拒み続けた。近所の医者は、心臓病は神経的なものだと言い、家族は病気で苦しんでいる父をなおも馬鹿にし続け、本人が苦しがっても、「気を強く持って」というだけだった。

そんなある日、その朝、父は調子が悪く伏せっていた。心臓発作のような症状が起こって、近所の医者に電話したが、「神経だから大丈夫、神経で死ぬことはないよ」という言葉を真に受けて放っておかれた。

昼間にちょっと起き上がって、作り置きのサンドウィッチを口にしたが、その途端、苦しみ出した。

布団に寝かせて灯を消した。

しかし、その、ほとんど30秒後にもう息がなかった。

55歳だった。