無意識さんとともに

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AとBとC 第十五回〜キリスト教との出会いとM山さん

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小さな頃から母と戦争状態だったが、母の支配に抵抗しながらも自分の罪意識、自分がとんでもなく悪い人間だという感じを消し去ることはできなかった、いやむしろ、それは成長するにつれてますます大きくなっていった。と共に、清らかな美しい心を持った天使のような人間になりたかった。罪意識とそういう願望は、今、思えば表裏一体のもので、性欲動なのだが、その時はわからなかった。

 

私の中高生の頃、10代で自殺した子の手記が流行っていた。そういう手記にひどく心惹かれて読んだものだ。

どの手記にも共通しているのは、『大人は醜い、そういう醜い大人にはなりたくない、大人になる前に死んでしまいたい』という心を串刺しにするような思いだった。

『純粋になりたい、純粋でいたい』と思った。そして、青い空をますます高く、鋭く、自分の一切の不純物を焼き尽くしながら透明になって、昇っていく針のようなイメージがいつも脳裏に浮かんできたものだ。

 

私は、中高6年間、図書委員をしていた。小さいな頃から本だけが本当の安心できる親友のような自分にとって、図書委員とはまことに似つかわしい役割だった。

特に、高校に入ってから、司書のK先生とN先生がいる図書準備室は、図書委員にとってサンクチュアリのようなものだった。昼休みも放課後も図書委員はそこに入り浸っていて、男女関係なく、先生たちと話したり、お菓子を食べたり、本の貸し出しや整理をしたり、またお互いに議論したりしていた。私もそのひとりだった。

 

同じ図書委員にM山さんという女子がいた。彼女はいつも静かに微笑んでいた。聞くところによれば、台湾と日本のハーフということだった。決して自分を人に押し付けることのない感じで、しかし、ある意味、存在感があって、特に、他の図書委員の女子は彼女にひどく惹きつけられていた。何でも彼女はクリスチャンということで、そのうち、女子で洗礼を受けてクリスチャンになるものも次から次へと現れた。

 

私はというと、神などは存在しないと思っていたし、何よりも宗教というものに生来的な嫌悪感を抱いていた。それで、M山さんとも距離を置いていた。

 

そんなある日、図書準備室で彼女とばったり出会した。彼女以外には、A沢先生という私が最も尊敬できた生物の先生がお茶を啜っていた。

 

私は何だか、ふと意地悪な気持ちになって、M山さんに議論をしかけたくなった。

 

「本当に、神が存在していると思ってるの?」

「ええ」

いつもと変わらない落ち着いた微笑みを口の端に浮かべながら答えた。『微笑むとちょっと可愛くなるな』などと関係のないことが心をよぎった。

「神がいるなら証明してほしんだけど?」

「神さまは、ここにもあそこにもいて、私たちは神さまの中に生きていて、動いていて、存在しているの。証明するようなものではないわ」

「結局、証明できないっていうこと?」

「神さまは心で感じて、信じるものよ。証明するようなものではないの」

ちょっとため息をつきながら答える。

それからは何を話したか覚えていないが、私はますます残酷な思いに駆られて、彼女を論破しようとした。

それを聞いて緑茶を啜っていたA沢先生が、急にポツンと言った。

「神の存在は証明できないと思うけれど、神のいないことも証明できないんだよなあ』

その言葉がやけに耳に残った。

 

けれど、私は懲りずに彼女を図書準備室で見つけるたびに、議論をしかけ続けた。彼女を論破するために、あの無味乾燥な聖書を旧約聖書の頭から読み始めたほどだ。

 

高校を卒業して彼女と会う機会があった。あの静かな微笑みが相変わらずのままで、彼女はじっくり話をしたいということで、無警戒にも彼女のアパートの狭い部屋に誘われた。

 

彼女は作ってくれたホワイトシチューライスをぎこちなく食べていた。

『変な組み合わせだなあ』と内心、思っていた。

 

緊張で何を話したのか覚えていないが、ただひとつ覚えているのは、私が議論をしかけていたあの頃、彼女は日記に私の悪口を書きまくっていたということだった。

「そんなあなたがクリスチャンになるとは思いもよらなかったわ」

パウロのようだよね」

 

彼女が部屋に誘って手料理を振る舞ってくれたのは、同じ神を信じる安心感と、私がクリスチャンになったというお祝いの意味もあったのかも知れない。

 

シチューとライスの組み合わせに戸惑ったその時以降、私は再び、彼女に会うことはなかった。