無意識さんとともに

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AとBとC 第三十回〜脱出

B2C

 

相変わらず、教会には通い続けてはいた。自分にとっては習慣みたいなものだった。そして、また、依然としてクリスチャンとして振る舞い続けていた。食事前には他の人の前でもお祈りをしていたし、大学のクラスの飲み会には参加しなかった。

 

それでも、自分の中で決定的に何かが変わってしまっていた。教会学校、礼拝、礼拝後の青年会…に出るには出たが、何だか、今までかかっていたスクリーンが取り去られてしまったような、ひどく醒めた目で見ている自分がいた。

 

教会の仲間や牧師は、そんな私を心配して、会うたびに、「最近、大丈夫?あなたのためにいつも祈っているよ」と言ってきた。以前はそういうことを言われると、彼らの愛?に涙がこぼれるような感じがしたが、今の私には、とても煩わしく思えた。

 

そのうちに、ある決定的な出来事が起こった。

 

教会には、身寄りのないお婆さんがいた。彼女のことをみんな、いろいろ面倒を見ていた。しかし、彼女は洗礼を受ける気はなく、そういう状態でもう10年以上通い、ただみんなの世話を受け続けていたそうだ。

 

ある週に伝道会(新しい人を教会に集めるためのイベント)があった。確か、有名なクリスチャン声楽家が呼ばれた。そのミニコンサートの後、彼女は急に叫び出した。おそらく、みんなの目が新来者に集まっているからだと思う。

 

次の週の礼拝が終わった後、普段はとても穏やかな5人の子持ちの司会者が急に言い出した。

「この教会には悪魔がいる」

「そして、牧師は悪魔を庇っている」

 

私は何のことやらわからず、ただ度肝を抜かれるばかりだったが、他の人たちは目配せをしあっているようだった。

 

悪魔とはあの身寄りもないお婆さんのことだった。

そして、悪魔とは、ここまで世話をしてきても洗礼を受けようともせず、せっかく新来者が来ているのに叫び出すということに堪忍袋の緒が切れてということなのだろう。その怒りは、それにとどまらず、庇いだてをする牧師にも向けられたということなのだろう。

 

私は、ちょっと前に、信徒のお偉いさんの家に、牧師と他の青年と共に遊びに行った時に、そのお偉いさんがふと言った言葉を思い出した。

『ネズミを取らない猫はいらない』

 

なるほど、牧師が教会に赴任してから少しも信徒の数が増えていないということらしかった。

 

それから、いろいろなことがあって、牧師は教会を追い出された。

牧師の後には、若いやたらにニヤニヤした鈴をつけられた猫のような人が新しい牧師として迎えられた。

 

こういう出来事の中で、私の心は終始、静かだった。『心に聞く』ということを知る前の私なら、激しく動揺して、それこそ、また酒を飲んでイエスはどこにいるのかと叫び回ったことだろう。

一応、みんなには、「あのお婆さんは悪魔ではないし、彼女を庇った牧師も責められるべきではない。そもそも洗礼を受ける受けないは本人の意思だし、教会の人数が増えるも増えないも牧師のせいではない」という意見を言ったが、聞く耳を持つ人はいなかった。

正確に言うと、ごくわずかの人は隠れて同じ意見だと言ったが、それを堂々と言うものはいなかった。

 

その日曜日も、私はサイクリング車に乗りながら、教会の礼拝へと急いでいた。このあたりは林が多い。左右に流れていく木立ちの中でペダルを漕いでいた。

 

何だか、急に心に聞いてみたくなった。今まで、このことで心に聞いたことはなかった。

 

「心よ、この出来事はどうして起こったの?」

「支配が原因」

「心よ、なぜ神がいるのに、その神を信じているのに支配が起こってくるの?」

「その神は人間が作ったもので、信じるとは自分たちが作ったものに支配されているだけのことだから」

 

自分の内側がピクンと反応した。

 

「心よ、聖書で、神を父と読んでいるけど、この神である父は誰のこと?」

「支配者だよ」

「そして、あなたは支配者である親から父である神という支配者に親代えをしただけのこと」

「心よ、そうでない神はいるの?」

「光の人には支配者でない神はいるけれども、虚無には支配者である神しかいない」

 

私は、向かった道と逆方向に自転車を漕ぎ出した。