無意識さんとともに

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AとBとC 第三十一回〜奴隷解放

C2

 

教会に行かなくなって、次第に私はクリスチャンとしての振る舞いもやめていった。食事の前のお祈りもしなくなったし、前は必ず断っていた哲学科のクラスの飲み会にも行ってみた。

 

そして、教会で自分の友人だと思っていた人たちとの仲も疎遠になっていた。教会に行かないことがまるで悪魔の手に落ちたかのように考えている人たちとの関係は、表面上の言葉が「愛している」だの「いつまでも祈っている」だの、ひどく甘い言葉であっても、その実耐え難いほど苦いものとしか感じられなかった。また、キリスト教以外のことでも彼らとつながれると考えたのは、あまりに甘い見込みだった。私がもう決して教会に行く気がないと知ると、彼らは自分からひとりまたふたりと自然と離れていった。まさに、『教会の切れ目が縁の切れ目』だった。

 

さらに、心と対話するうちに、真相はよりはっきりしてきた。

結局、私は、母親の支配からキリスト教の父である神の支配に代わることで、自由になろうとしたのだった。しかし、それは単に奴隷が主人を変えることに過ぎなかったのだ。

支配そのものを脱する必要があったのだ。そして、心に邪魔を排除してもらい、心とつながることで支配から脱出するという単純な道があったということだ。

 

母親とのまだ残る臍の緒のような関係を断ち切り、クリスチャンをやめ、クリスチャンとしての振る舞いもやめて、目の前に果てしなく広がる大空のような自由が見えてきた。

 

そして、自分がそういう支配の中にいる時は、恐ろしく御し難い怪物のように見えていた制欲に関しても、小さなネズミぐらいの姿に見えるようになった。以前は、自分が男性であることを呪い、男性であることに罪を感じ、もう自分で自分を去勢してしまいたいぐらい思い詰めていたが、今は男性であること、性欲があることがごくごく当たり前の自然なこと、嫌う必要もない「ただそれだけのこと」に思えるようになった。

 

クリスチャンであった時、テレビで「うる星やつら」が放送されていて、登場人物のラムちゃんに言い難い性的魅力を感じて(その当時、好きだった女の子がラムちゃんに似ていたこともある)、全巻買って、性的妄想に耽っていた。そんな自分を途方もない罪人に思えて、涙を流し、神の前に何度悔い改めたことだろう。そうやっても同じことの繰り返しだった。

 

ある日、私は真夜中に、思いあまって、漫画全巻を紺色のボストンバッグに入れ、サイクリング車の荷台にくくりつけ、近所の林の中に捨てに行った。不法投棄で捕まらなかったことは幸いだった。その後も、A Vビデオを買ってはそんな自分に吐き気を覚えて、土の中に埋めたこともある。

 

今となっては、そんな自分に対する後悔は一切なく、そんな自分がひどく面白くむしろ愛しいと思えるほどになっていた。

 

恋愛に関しても、私は一切の性的なものを封印して、私は相手を極限まで理想化していたが、心の言うには、

「相手の中に、自分の母親と違う理想的な母親を求めていただけ。相手の中に自分を救ってくれる聖母マリヤを求めていただけ」。

ああ、何というコメディだろう。

けれど、今はそんな自分を笑い飛ばせる自分がいた。