無意識さんとともに

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さよなら、純粋バカ

10代の頃、私は、10代で自殺してしまった少年少女の手記をやたら読み耽っていた。そして、「純粋」ということにとても憧れていた。私もまた、できるならば、「純粋」なまま、汚れに染まらないまま、なるべく早く死んでしまいたいと思っていた。

 

青い空を一本の針のように、高く鋭く、自分を磨耗させながらどこまでもどこまでも昇っていき、ついには自分の存在をすべて燃やし尽くすそんなイメージが頭を離れなかった。

 

そんなイメージはいつしか知らないうちに、キリスト教と結びついていた。「貧しく、清く、美しく」、私は八木重吉というクリスチャン詩人を愛読していた。

 

うつくしいもの 八木重吉

 

わたしみずからのなかでもいい

わたしの外の せかいでもいい

どこかに「ほんとうに 美しいもの」は ないのか

それが 敵であっても かまわない

及びがたくても よい

ただ 在るということが 分かりさえすれば

ああ ひさしくも これを追うに つかれたこころ

 

八木重吉の顔を見ると、ものすごく寂しそうな顔をしている。うつくしいもの=純粋を求めてもそれを見つけることはできない。一瞬、見つけたと思ってもそれは次の瞬間には手の中から蒸発してしまう。

そうして、純粋を求め続けるならば、美しくないもの、自分の心の中にあるドロドロは認められなくなってしまう。
いや、悔い改めと称して、そういうドロドロを見たとしても、「ああ、そんな自分はだめだ」というどうしようもない自責の念が吹き出してきて、耐えられず、いつの間にか美しくないものは目をつぶってしまう。

自分の外面だけ美しく、内面は汚いものでいっぱいの白い墓になってしまう。

 

そうやって、30もとうに過ぎた頃、会社の飲み会で飛ぶ鳥も落とす勢いの取締役の前に座った、彼は酔っ払うと私に絡んできて言った、

「この純粋バカが」

そう言うと、私を殴ってメガネが吹き飛んだ。

私はその時も、クリスチャンらしく純粋であろうとして、一言も言い返さず、黙ってメガネを拾って席に戻った。ただ、眼の端に涙が溜まっていた。

 

今の私ならどうするだろう。

「ばかやろう」ぐらい言うだろう、それで怒って途中で飲み会を出てきてしまうだろう。

 

でも本当にばかやろうなのは、その時の自分だ。私は純粋であろうとすることによって神になろうとしていたのだから。

 

さよなら、純粋。さよなら、純粋バカ、愛しさを込めて。