9月に入ってまもなく、僕はまた放課後、釘山さんと図書室のカウンターで本の貸し出しをしていた。当然ながら、夏休みの間は顔を合わせることはなかったから、こうやって話すことができるのは久しぶりだった。
服装とかが特に変わっているわけでもなかったが、何となく雰囲気が変わったようだった。
落ち着いているというのか、何と言ったらいいのかわからないが。
「上地君、催眠をかけてくれてありがとう」
「いいよ、だいぶ前になるけど」
どうなったのかと、直接、聞くことは慎みを欠いているようでできなかった。
「そう言えば、彼氏とは別れたよ」
「ああ、そうなんだ」
おめでとうという言葉が頭に浮かんだが、さすがにまずいかもしれない。僕は無難な返事にとどめた。
釘山さんは、返却された本の中から一冊を抜き出して、ページをパラパラめくる。ちょっと前には、夏休みに借りていた本を返しに来る生徒たちがいたが、今はそのピークも過ぎたのか誰もいない、司書の先生たちも用事があって司書室を空にしていた。
「何だか、急に馬鹿馬鹿しくなっちゃって」
良かったねといったらいいんだろうか?それも違う気がする。
「心境の変化?」
「そうね、彼氏のことも、暴力を振るわれても彼氏を好きだと思っていた自分のことも」
相変わらず、釘山さんは視線を本のページに落として、言葉を口から出す。
「自分のことも?」
「そう、何だか、他人の夢を見ていたみたいで」
「誰の夢?」
「彼氏の夢。彼氏の夢の中の自分を演じていたのかもしれないわ」
「そうなんだ、そうして、他人の夢の中の自分から覚めたということ?」
「そうね、そうしたら、なんであんなに夢中になって、なんであんなことしていたんだろうっていう感じ」
今度こそ、この言葉を使ってもいいんだろうか。
「良かったね」
「そうね、ただ、前の自分を責める気もないの。あれはあれ、これはこれかな」
「何だか、すごく冷静な感じだね」
釘山さんが顔をあげて、こちらの方を見た。
「とにかく、ありがとう。まだ、この自分に慣れないで戸惑っているところもあるけれど」
「自分に戸惑う?」
「そう、不思議な感じよ。以前なら、ああしていたなと思うところで、そんなことしなかったり」
「例えば?」
「彼氏に別れを持ち出したんだけど、以前の自分ならそう言ったとしてもフリで、彼の気を引くとか、彼に変わって欲しいと思ってとかで、結局、しばらくして彼のところに戻ってしまうと思う」
「そうなんだ」
「でも、今度は、彼の反応は全く気にならずに、彼自身はわめいたり、私をどんなに愛しているか言ってきたりしたけど、そんなことに全然、動かされずに、別れを告げることができた」
「すごいね」
「そう、だから、そんな新しい自分にびっくりしたり、戸惑ったり」
「でも、そのうち、慣れると思うよ」
「そうね、これもみんな、上地君のおかげ」
「僕のおかげじゃないよ、釘山さんの無意識さんのおかげ」
「無意識さん?」
釘山さんは、目を丸くして僕を見つめたが、僕の言わんとするところはわかったようだ。
まだ暑かったが、中庭に面した窓から涼しい風が吹き込んできた。
「もう秋だね」
僕は、
『この明るさのなかへ
ひとつの素朴な琴をおけば
秋のうつくしさに耐えかねて
琴はしずかになりいだすだろう』
という八木重吉の詩を心の中で思い浮かべたりしていた。