福井君は、それからは妙に大人しい。何だか、いけないこと聞いちゃったかなと、わたしは思った。もう、授業中に、本は読んでいない、ただ、教科書を立てて、寝ているだけだった。
それでも、ある日、10分休みの時に話しかけてきた。
「浜崎さん、これ、約束の『ぐうたら人間学』。よかったら読んでみて」
福井君は本を手渡しながら、言った。何だか、声がしおらしい。
「うん、ありがとう。こないだは変なこと聞いちゃってごめんね」
「…そんなことないよ。ただ…」
その瞬間、休みが終わって、数学の先生が入ってきた。『ただ…』なんだろう?
わたしは授業に集中できなかった。そのことばかり考えていた。
授業が終わって、いつも通り、家庭部の部活に出ようとしていた。隣の席を見ると、福井君はもう、速攻で帰ったのか、席は空っぽだった。
別棟にある調理実習室に向かって、渡り廊下を歩いている時だった。
ふと、こないだ、福井君と話をしたゴミ置き場が目に入った。
すると、学生服のやせぎすの男子が、ゴミ置き場の横に、膝を抱えてうずくまっている。学生鞄は、近くに無造作に放り出されている。
わたしは、思わず、上履きのまま、近寄った。
「福井君?」
顔を上げると、思った通り、福井君だったが、何だか、顔が苦痛で歪んでいる感じがしてならなかった。
『やっぱり、わたしが昨日聞いたことがそんなにも苦痛だったのかもしれない』、そう思って苦しくなった。
「昨日、ほんとにごめんね」
わたしは、福井君の横に腰をおろして、顔を覗き込むように言った。
「そうじゃない」
福井君は、ちょっと強い語調で言った。
「えっ」
「そうじゃない、そうじゃないんだ、浜崎さんのせいじゃないから」
「うん」
「そうじゃない、そうじゃなくて…浜崎さんは神様っていると思う?」
あまりに、思いがけない質問だったので、頭が混乱するしかなかった。
「神様って?」
「天地万物を創りたまいし神様」
「そんなこと、まるで考えたことないわ」
「そうだろうね、普通は」
『福井君の言葉が自嘲気味に聞こえたのは、気のせい?』
「それと、福井君の悩みと関係あるの?」
思わず、心に浮かべた疑問を口に出してしまった。
福井君は、急に大きく息を吸った。
「この前も口に出したように、うちはカトリックなんだ、代々のカトリック」
想像してみた、映画やテレビの荘厳なイメージが頭に浮かぶ。
「うん」
「それで、日曜日には家族揃ってミサに行くし、朝もみんなでお祈りをする」
言葉は理解できても、全然、実感ができない。
「うん」
「そんなに熱心に神様を信じているのに、家では次から次から不幸なことが起こる」
「不幸なこと?」
福井君は、また、大きく息を吸った。
「妹は小5で事故で亡くなっちゃったし、母は病気で寝たきりなんだ」
福井君は、まるで溺れかけてあえいでいるような表情をする、それがわたしにも伝わってきて苦しい。
「それなのに、父は『これは、神様が私たち家族に与えてくださった十字架だ、むしろ喜ばなくちゃいけない』と言っている」
「えっ」
「そんな十字架を背負わせる神様って…ほんとに神様なの?そんな神様だったらいない方がいいんじゃないの?」
福井君は、肩を震わせる。
わたしはどうしたらいいかわからずに、ただ、福井君の背中をさするしかない。
背中に負った十字架をもう降ろすことができるように、それがとんでもない勘違いであっても。