今日は、小説を書いていて、キリスト教時代の苦しいことを思い出した。
「すべてのことを感謝せよ、悲しいことも苦しいことも、すべてのことを」、かくして、プロテスタントは、どんな病気になってもどんな不幸に見舞われても、「ハレルヤ、この病気も不幸も、神様が与えてくださったものです」と感謝し、カトリックも、「苦難こそ、私が十字架の主とひとつになることのできる恵みです」と感謝の声をあげる。
この教えほど、苦しいものはない。
悲しくあっても、苦しくあっても、「悲しい」とは言えず、「苦しい」とも言えない。
むしろ、そういう時こそ、にこやかに「感謝します」ということこそが信仰だと教えられている。
ある牧師は、こう言っていた。
「あなたの愛してやまない娘が、目の前で、悲惨な事故に遭い、空中に放り出されて、地面に叩きつけられて、息途絶える時に、まさにその時『感謝します』ということこそ、神が与えたもうた信仰なのだ」
私は思う、こういう倒錯の極みこそ、キリスト教の毒であり、宗教の毒であり、支配者の支配そのものなのだと。
神というお方がいるならば、絶対にこういうお方ではあり得ない。
悲しい時、苦しい時に感謝せよと要求することは、最大の虐待であり、そういう神は、神という仮面をつけた支配者に他ならない。