無意識はコピーをつくらない。
宗教は、教祖のコピーをつくることで、人を救おうとする。以前、事件を起こしたある宗教は、ヘッドギアをつけて、教祖の脳波に同調することで解脱しようとしていたようである。それは極端な例かもしれないが、宗教では、多かれ少なかれ、ブッダやキリストなどの模範的なイメージがあって、それに合わせ、倣い、一体化することで、自分を救おうとする。
それは、宗教ばかりではなく、思想でも同じことなのかもしれない。
だから、当然のこと、同じ宗教や思想を信じる人は、同じ顔つきになっていく。
けれど、無意識は信仰を要求しない。
大いに疑っていいのだ。
そもそも、無意識のコピーになろうと思っても無理である。
無意識は、無色透明の存在であって、形がない、色がない、イメージもない。
だから、無意識は自分のコピーをつくり出すのではなく、たえず、自分以外の誰かになろうとしてやまない自分を、ただの自分に戻すのである。
O先生も、吉本先生も、ミルトン・エリクソンも、それぞれ似ていない。それぞれ、違う個性がある。
O先生は失踪するモーツアルトのようであり、吉本先生は天を天翔る龍のようであり、エリクソンは変貌自在なダヴィンチのようである。
彼らをお手本にすることはできるが、彼らになることはできない。
私が無意識さんに触れられる時、私は誰かのコピーになるのではなく、私は限りなく私になって、私として成長していくのだ。