キリスト教は卒業したのに、何十年も読んできた聖書は自分の血肉となっているらしい。
八木重吉という詩人は、「聖書の中に入り込みたい」と言ったが、聖書、特に、何百回も読み込んだ新約聖書は、自分の手足のように感じることがある。
ここまで、繰り返し読んだ本はない。
しかし、ここまで繰り返し読むと、もう書いてあることが自分とひとつになってしまって、自分が書いたように感じられてくる。
自分で、新約聖書の続きを書ける気さえしてくる。
もしかしたら、こういう読書法は、聖書以外に使えるのかもしれない。
エリクソンのようになりたかったら、エリクソンの催眠のケースを自分の手足のように感じられるまで、精読、遅読、速読…ありとあらゆる読み方で、繰り返し繰り返し、読むといいのかもしれない。
そうしたら、自分もエリクソンとは違うこの自分のままで、エリクソンの続きを口から出せるようになるのではないかと思ったりもする。