少し高めの声が語り出す。
「聖書には、『神は愛である』と書いてあります。神は徹底的な愛なのです。この神以外にどこにも愛はない。愛は私たちのうちにはない、ただ神のうちにだけあるのです。
けれど、神の怒りについてお聞きになったことがおありになるでしょう?
神は自分を信じない、また自分の戒めを破った者たちを罰する怒りの神だと。
これはどういうことでしょうか?
神が愛の神なら、怒りの神ではあり得ません。
神が怒りの神なら、愛の神ではあり得ません。
どうしたらいいのでしょうか?
私たちは何を信じたらいいのでしょうか?
ルターという人は、この矛盾に、『徹底的な愛の神は、徹底的な怒りの仮面をつけて人間に近づく』と言いました。
子どもがマッチで火をつけて遊ぶなら、親はものすごく怒ります。
もしかしたら、子どもがひどく怒っている親の顔を見るならば、もう自分は親に愛されていないと思うかもしれません。
けれど、親が子どもを徹底的に怒るのは子どもを愛していないからでしょうか?
いや、徹底的に愛しているからこそ、徹底的に怒るのです。
親は子どもを滅ぼそうとして怒るのではなく、子どもが火遊びで自分を傷つけないように、子どもを救おうとして怒るのです。
不完全な人間の親でもそうなのです。
ましてや、私たちの完全な、まことの親である神は、ましてそうです。
ここから、神は徹底的に愛するがゆえに、徹底的に怒るお方だということがわかります。その怒りは私たちを救う怒りであって、私たちを滅ぼす怒りではありません。
いや、むしろ、怒りというのは仮面なのです。
怒りという仮面の裏には、愛がはち切れんばかりに満ち満ちてあふれようとしているのです。
そして、信仰というのは、この怒りの仮面の裏の徹底的な愛を信じるということであります。
この愛を信じた時に、私から恐れが消えるのです。
『完全な愛は恐れを消す』と聖書に書いてあるとおりなのです。
恐れはもはや一片もなく、いっさい跡形もなく消えてしまうのです。
そうして、それで終わりではありません。
私たちも、神の徹底的な愛を知って、愛の人になるのです。
『愛のある者は神を知っており、愛のない者は神を知らない』とヨハネは言います。
なぜなら、『神は愛だからです』
さあ、今、怒りの仮面に恐れずに、仮面の裏の徹底的な愛を信じて、愛である神に近づきましょう。そうすれば、あなたの心も愛で満たされ、一切の恐れが消え去り、あなたも愛で輝く人になれるのです。
一緒に祈りましょう。」
中学生である僕には、すべてがわかるわけではなかった。
けれども、もうこれしかないのだと思った。
そして、徹底的な愛の神、それだけが僕の苦しみから僕を救ってくれるのだと。
「神さま、今まで、あなたを恐れてきました。
そして、あなたは私を滅ぼそうとされているのだと信じてきました。
けれど、今、その信仰を投げ捨てます。
あなたの仮面の裏に満ち溢れている愛であるあなたを信じます。
私から一切の恐れを消し、私の心をあなたの圧倒的な愛で満ち溢れさせ、私をあなたの愛をあらゆる渇いた人に飲ませる愛の人に変えてください。
イエス・キリストの御名によって、アーメン」
僕は、テープの神谷先生と一緒に祈った。
そして、アーメンと言った時、真っ暗な心に光が輝き出し、恐れの代わりに愛が僕の心を覆い尽くした気がした。
僕は、生きながらにして天国にいるように感じた。
僕の心はうっとりとし、さらに神の愛で燃やし尽くされているようだった。