鏡
私は鏡、私の目の前には家のキッチンへとつながるドアがある。
私は自分が何なのかわからない、私はそこにあるものを映すだけだから。
ドアがギィと開いて、赤ちゃんを抱いた若いお母さんがやってきた。
赤ちゃんの甘いミルクの匂いが漂ってくる。
私は腕に抱かれた赤ちゃんを見つめ、赤ちゃんは私を、いや私の中に映るもうひとりの赤ちゃんを見つめている。
赤ちゃんは、もうひとりの赤ちゃんに笑いかける。
そうして、また、鏡の中の赤ちゃんが自分に笑いかけるのを見て、またさらに笑いかける。
その声を聞いていると、私も何だか笑いたくなってしまうだ。
若いお母さんは、赤ちゃんが笑っているのを見つめて、自分も満足そうに微笑む。
「健やかに大きくなりますように」とつぶやいたのか。
赤ちゃんを腕に抱いたまま揺らす、そうすると私の中の赤ちゃんも揺れて、私も何だか揺れている気分になる。
お母さんと赤ちゃんが去ってしまうと、今度はドアがバタンと開いて、猫がやってきた。
猫はじっと私を見つめている、いや私を見つめているのではない、私の中に映るもう一匹の猫を見つめているのだ。
グルグルグル、猫はもう一匹の猫に唸り声をあげる。
そうして、もう一匹の猫に突進して、どしんと私にぶつかる。
何だか、私まで猫になった気持ちがしてくる。
そのうち、猫はもう一匹の猫に慣れたのか、はたまた、仲良くなったというのか、ジャンプしたり、まわったりしてみて、ニャアニャア言いながら、遊び始めた。
私も猫になってもう一匹の猫と自由に遊んでいる、そんな気がしてくるから不思議だ。
猫は満足したのか、十分遊んで今度は眠くなったのか、どこかに行ったようだ。
そうして、どれくらいの時間が経ったのか、私にはとんとわからない。
ある日、今度は、黄色い帽子、水色のスモックを着た女の子が目の前に立った。
私には、瓜二つの女の子が映る。
女の子は、もうひとりの女の子に話しかける。その顔が何だか得意そうだ。
「幼稚園に行くことになったのよ」
肩から下げた小さな黄色い鞄のジッパーをジージージーと、何度も開けたり閉めたりして見せる。
私もちょっと得意そうな顔に合わせて、頬が緩んでいる。
女の子は、私の前で一回転まわって見せる。
そうして言う。
「あなたは私の大事なお友達、あなたも私と一緒に幼稚園に来るかしら?」
そうできたらいいなと思いながら、私はその女の子を見守るようなそんな優しい気持ちになっていることに気づく。
女の子は、もう一回、黄色いカバンをジーと開けて、そこから小さな鏡のコンパクトを取り出す。
二つ折りのコンパクトをパンと開けて、にっこり微笑む。
「ママに買ってもらったのよ。ほら、これであなたもいつも私と一緒よ」
私は、その言葉に胸が弾む気がする。
女の子はスキップしていく。
それから、どれくらい、時間が経ったのか、それとも一瞬のことなのか、今度は、黒い詰襟の制服を着た男の子が現れる。
男の子は、私の中のもうひとりの男の子を見て、詰襟のカラーをパチンと音をさせて、はめる。
それから、丁寧に櫛で髪を梳き、泡のようなものを髪に撫で付ける。
「これでよし、デートの準備は万全だ」
誇らしげに、私の中の男の子を見る。
そんな姿を見ていると、私も同じ心模様に染まったのかそうでないのか、何だか応援したくなる。
男の子はガッツポーズを作り、私の前からドアをバタンとさせて出ていく。
それから、私は時間の流れの中を旅行し続けていたのか、気がつくと、目の前に、紺のスーツを着た女性が立っていた。
女性は服装を整え、まだぎこちない感じで、お化粧をしていく。
お化粧の仕方に好奇心が引かれて、私は失礼ながら興味を持って見ていた。
女性は、身なりが整うと、「今日は、私の初出社です。私を助けてね」と言う。
私はどうして助けてよいものやらわからないが、女性はハンドバッグからさっと、あのコンパクトを取り出す。
「ほら、ずっとずっと一緒でしょ」
私はちょっと涙ぐみながら、「ああ、そうだったね」と言葉を返す。
それから、私は眠りの中に落ちて、目を覚ますと、夢なのか現実なのか、私の前には、ウェディングドレスの女性と、タキシード姿の男性が立っていて、こちらを見ている。
ふたり、仲良く並んで、語り合っている。
私の中のふたりもまた、語り合っている。
私も何だか、目頭が熱くなって、もう涙を我慢できなくなって涙を落とす。
「あら、鏡に雫が落ちて曇っているから、拭いてあげましょう」
女性がきゅっきゅっとハンカチで拭き取る。
女性は私をまっすぐ見つめる。
「あなた、これが私が大切にしている鏡なのよ」
男性も頷いて、私の方をじっと見る。
私も何だかうれしくて、きらきらっとふたりを見つめ返す。
「そうだわ、ほら」
女性は、またコンパクトを取って、パンと開けて、私の方に向ける。
その時、私はその鏡を見つめる。
すると、私とその鏡が反射し合って、無限に、どこまでもどこまでも反射光がお互いを照らし返す。
「ああ、私は…だからこそ、全てを映すことができたのかもしれない」