「夕暮迫る雲の上
いつも一羽で飛んでいる
鷹はきっと悲しかろう」
(「テルーの唄」)
虚無の人は、群れをなして行動します。そして、群れの一体感の中で自分の生きる実感とか意味を見出します。
けれども、光の人は群れになじみません。群れの中でうまくやろうとしてもできないし、虚無の人のように、そこに喜びは感じられないのです。
光の人は、空を一羽で舞う鷹のようです。翼に空気をつかみ、羽ばたいて、空を舞う自由こそが光の人の喜びであり、いのちなのです。
光の人ではない人から見ると、そういう孤独な姿は、寂しい、悲しいものに映ります。もしかしたら、光の人自身も自分のことをそんなふうに思っているのかもしれません。
でも、それは光の人の思いではないのです。周りの人から入れられた想いに過ぎません。
支配者はそんな思いを利用して、光の人が周りの人に受け入れられるよう、光の人を自己犠牲の道にいざなって来ます。
「ほら、お前はなんて寂しい人間なんだ。お前が自分を神にいけにえとして捧げたら、周りの人間もお前を受け入れてくれて、いつまでもお前のことを覚えてくれるだろうよ」
けれど、それは巧妙な嘘です。そもそも、光の人自身は、空で自由に羽ばたく時、少しも寂しくはないのだから。
どうして、寂しくないのですって?
光の人は、人の目に隠れた小道をただただ歩いているからです、ひとりではない、無意識さんとふたりで。