無意識さんとともに

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「心に聞く」ステップバイステップ1−6無意識は意識によっては判断されない

さて、いい加減、心の声が聞こえるようになってきた後のことを書こうとも思うのだが、心がそれを許さない。

同じことを何度も言っているような気がしてならないが、「心に聞く」ということは心に聞こうとすることではない。

そういうことでは絶対にない。

そういう試みは宗教にある。

例えば、イグナチオの霊操では、心に聞こえる声が、善なるものからきた声なのか悪なるものからきた声なのか、判別しようとする。

それは、人を迷わせるだけだ。

なぜなら、そういう試みは、意識が無意識が何か判断しようとすることであるからだ。

意識は何をしようとも、意識であって、意識に始まり意識に終わるだけである。

だから、無意識の声は優しいものであっても、優しい声が無意識の声だということではない。逆は必ずしも真ならずということが当てはまる。

聞こうとするのではない、心に邪魔と支配を排除してもらうことを続けていって、邪魔と支配がなくなってきた時(確かに人間である以上、完全になくなることはないしても)に、自ずと向こうから聞こえるのである(と言っても幻聴ではない、単純な自問自答のようなものである)。
そういう意味で、『これは意識の声なのか、それとも無意識の声なのか』といくつかあるうちから選んで判断しなければならない状態にある時は、まだ、支配と邪魔の排除が十分ではないのかもしれない。
そういう意味で、私のような人はいないかもしれないが、1にも2にも3にも支配と邪魔の排除と口を酸っぱくして言うのである。

そして、ひとつだけ付け加えれば、心の声は、人を自由へと解き放つ。
心の声が優しいものであって、支配者の声は優しいものではないと言うのではない。
支配者の声も優しいものであるかもしれない。けれど、支配者の声は、人を決して自由へと解放しない。むしろ、奴隷の拘束へと縛り付けるのである。
だから、「木は実によって知られる」のであるが、自由へと解放する木は、ただ心によって奴隷へと縛り付ける木が抜かれることによって、知られるのである。

その時は、多くの声の中から心の声を選ぶのでもなければ、2者択一で選ぶのでもない。ただ、単純に心が語るのである(ただ、本当はさらに書くことがあるが、それは先に行ってからにしよう)。