もはや、僕には神様がいるのかわからなくなった。
松沢さんをクリスチャンにしてほしいと、あれほど祈ったのに何で聞いてくれなかったのか?
いや、その願いはかなわなくても、神が本当に全知全能なら、僕は誘惑に屈しなかったのに、何で校舎の裏のあんなシーンの場所に僕を居合わせるようにさせたのか?
何でそうやって僕を苦しめ続けるようにするのか?
さらに、もう一歩譲るとしても、祈っても僕の心から苦しみを取り去ってくれないのか?
わからない、わからない、わからない。
神はいるのか、いないのか?
いるとしたらどれほど残酷なお方なのか?
それとも神は愛だとしたらどれほど無力なお方なのか?
あるいは、そもそも神なんてはなからいないのか、すべては人間の作り出したものなのか?
そうだったら、僕が福岡君にしたことは何だったのか?
松沢さんに僕は違う選択を与えた方が良かったのではないか?
そういういろいろな問いが絡まった毛糸の玉のように、僕の心の中で転がり続けていた。
それでも、それでも、僕は、週2回、教会に行き続け、月1回、教会で説教し続けた。
『僕は単なる偽善者だ』と、僕は心の中で自分を罵り、呪っていた。
そんなある日、今度はテレビで、『ブラザーサン・シスタームーン』という映画が放映された。
13世紀イタリアアッシジのフランチェスコという聖人を描いた映画だった。
フランチェスコは、富裕な商人の息子として生まれた。そして、英雄になることを夢見て十字軍に参戦するが、そこは理想とは全く違う単なる殺戮の世界だった。
傷ついて、十字軍の敗残者として返ってきたフランチェスコは寝たきりになるが、屋根の上の小鳥に導かれ、自然の美しさに癒され、神と出会う。
そして、自分の持ち物を全て捨て、着ているものさえも父親に返し、町の外れの壊れかけた教会を貧しい人たちや病人や差別されている人たちとともに建て直す…
この映画の中に、こんなシーンがあった。
まだ、家を捨てる前のフランチェスコが、教会のミサに両親とともに出る。
前には、王冠を被り威厳をたたえた王としてのキリストを表したキリスト像。
フランチェスコと両親のような金持ちや権力者は教会のいい場所に陣取り、貧しい人たちや病人や差別されている人たちは、教会の隅に追いやられている。
荘厳なミサ曲が流れていくうちに、王なるキリスト像の目が開き光る。
フランチェスコは、叫び出す、「違う、違う、違う」
そして、シーンは変わり、フランチェスコは町のはずれで朽ち果てた教会の廃墟に、裸で十字架につけられているキリストのイコンを見つけ出す。
言葉にはできなかった。けれど、僕はこれしかない、そんなふうに思った。