心に聞くようになってしばらく経った頃、心の答えが何だかそっけない答えに思えたこともあった。
例えば、
「心よ、どうしたらいい?」
「私に頼らないで、自分で決めたら」
どういうことってその時はそう思って、ちょっと心にむかついてむくれたのだが、後になってわかった。
自分の場合は、キリスト教信者だったので、いつの間にか、心を神様のようにしていたらしい。心を神様の位置において、心に依存する傾向があったようなのだ。
確かに、自分がキリスト教を信じていた時は、神様が絶対的に正しいお方と信じていたので、聖書を読むなり、祈って神様の声を聞こうとして、神様に依存して神様に従わないと大変なことになる、間違ったことになるという感覚を持っていた。
心は、自分はそんな神様じゃないよと教えてくれていたのかもしれない。
「心よ、なんであの時、あんなそっけないことを言ったの?」
「私は神様じゃないし、君の人生は君のものだからさ」
同じようなことだが、こんなこともあった。
最初の頃、心に聞いて食べるものを決めていたのだが、ある時はこんな答えが返ってきた。
「心よ、今日は何を食べたらいい?」
「君の好きなものを食べたら」
「心よ、どうしてそんなことを言うの?」
「君は私に聞いて、これは食べるべきとか食べるべきじゃないとか、そんなことに囚われているからさ」
そっけない答えをもらったら、どうしてと聞いてみるのもいい。
それで、理由を教えてくれることもある。
もちろん、聞いても教えてくれないこともあるが。
「心よ、私は〇〇なの?」
「君は△△だよ」
「心よ、どうして?人に〇〇と言われたんだけど、〇〇じゃないの?」
「△△だよ」
「心よ、どうして△△なの?」
「…」
こんなふうに理由を教えてくれなかったりすることもある。
後で、〇〇か△△なのかどうでも良くなった時に、結局、〇〇だとわかって、心に言ってみた。
「心よ、結局、〇〇だったんだけど。何で△△って言ったの?」
「だって、〇〇って言ったら、君は膨れ上がっておかしなことになったから」
えっ、それって嘘つきじゃんと思ったけど、無意識さんにそういう意味での善悪はない(支配者はそういう意味での善悪にこだわる)、私のために、あえて違うことを言ったり、言わなかったりすることもあるらしい。
無意識さんが私のためになると考えて言ったり言わなかったりするのは間違いない、けれど、今の自分ということからすればそれはわからなかったりすることもある。
「心よ、時々、君の言うことがわからなくてじりじりすることもあるんだけど」
「私は、神様じゃなくて、君の親友だからさ」
「心よ、どういうこと?」
「ほら、友達ってのは、お互い、わからなかったり、誤解したり、ぶつかり合ったりして仲良くなっていくでしょ。それで本音が出てくる。私たちも同じこと」
「心よ、そんなものなの?」
「そんなものだよ、君と私は対等なんだからさ。君は私の言うことに従わなくちゃいけないわけではないし、縛られる必要もない、疑ったっていいんだよ」
「心よ、そんなんでいいの?」
「いいんだよ、それでだんだん親しくなって、親友になっていくんだよ。思ってること言えなかったら、親友でも何でもないでしょ?」
「心よ、わからなくて君に腹が立ったらそれでもいいの?」
「いいんだよ、自由な関係だから。それでこそ、親友でしょ。支配者には腹が立ってもそれは言えないし、そんなこと言ったらこわい。でも私は友達だから何でも言っていいんだよ」
「心よ、何だか、ホッとしたよ」
「それでいいんだよ、こっちも何でも言うけどね」
無意識さんは、風のような自由な関係を望んでいるらしい。