そうして、授業が5限まででバイトもないある日、僕はすっかり忘れていたが、釘山さんは僕の机のところに来て、腕をつねった。
「忘れてるでしょ、約束」
周りの女子は、一斉に僕の方を振り向いて、何だかとてもバツが悪かった。
忘れていたわけではない、いや、はっきりと覚えていた。けれど、こうもはっきりした悩みを持っている釘山さんに催眠をするのは、今までとは何だか違う気がして、あえて寝た子を起こさないようにしてきただけだ。
「忘れてはいないよ」
これで嘘にはならない。
「今日、バイトあるの?」
「いや、ないけど」
「じゃあ、お願い」
また、教室内の女子がこちらの話をじっと聞いているような気がする。彼女らの耳がロバの耳になって、耳がピクピク動いているような、そんな気がしてしまう。
「わかったよ」
「じゃあ、帰りに速攻でね」
僕たちは、授業が終わると、速攻で帰った。しかし、釘山さんはテニス部の部活をこの頃、全然していないようだけど、大丈夫なんだろうか?
正門を出て、左に道なりに歩く。畑には緑が生い茂っている。『これって小麦なんだろうか』一面の緑を吹き渡る風が顔にこの上なく心地よい。
「黙ってるけど、緊張してるの?」
釘山さんはペシャンコの革カバンを手で揺らしながら言う。
「全然、そんなことないよ」
反して僕の革カバンは、本やら辞書やらではち切れて破れそうにパンパンだ。何でも持ち歩かなければならない性分なのだ。
ある程度歩いたところで、駅とは反対側に、右に曲がって、住宅街の中を歩く。そうして、しばらくするとお目当ての公園が見えてきてしまった。
公園には、どうしてかわからないが、誰もいない。
僕たちは、公園の中央にある、屋根が蔦で覆われた東屋のベンチに腰掛けた。
あまり近すぎもせず、遠すぎもせず、僕たちの心の距離のままに。
「まず、呼吸合わせというものを一緒にやってくれる?」
「呼吸合わせ?何、それ?」
今日はロングをポニーテールにしている釘山さんが、ポニーテールを揺らしながら言う。何だか夏服がまぶしい。
僕は、簡単に呼吸合わせを説明した。
そうして、相互に呼吸合わせをする。相手の呼吸に合わせて、息を吸ったところで肩を後ろに、息を吐いたところで肩を前に揺らす。
人がいなくてよかった。無限塾でずっとやってきたことだけど、人に見られたら、いかにもアヤシイ。
5分間ぐらい呼吸合わせをしてから、僕はおもむろに言った。
「もう一度、悩みを聞かせてくれるかな?」
「いいわよ、あのね」