それから、僕はまた長いこと眠っていたようだ。
目を覚ますと、右手にあの温もりを感じている。
今度は、首を回すことができて、そちらを見つめた。
髪をポニーテールにして、白いブラウスを着ている、色の浅黒い、目の大きな女性が、ベッドのそばの丸いすに座っていた。
「る・か・ちゃ・ん?」
「そうよ、優君」
僕は続けて何か言おうとしたが、息が漏れて言葉にならない。
それでも、これだけは聞きたいことがある。
「たっ・ちゃ・ん・は?」
「たっちゃんは、今は、もう、普通に働いているわ」
「よ・かっ・た」
「それより、まだ、弱っているから眠った方がいいわ」
流花ちゃんは、僕のまぶたに指でそっと触れた。
僕は、また眠りに落ちていった。
再び、目覚めると、朝だった。病室の窓から光がいっぱいに差しこんでいる。
僕は、生まれた時からの習慣のように、「神様」とお祈りを始めようとした。
ところが、今の僕には、『神様』という言葉が腐ったパンのように感じられて、『神様』という言葉を口から吐き出した。
僕は、代わりに、起きあがろうとした。
お腹の傷が痛み、足が生まれたての小鹿のようにプルプル震えて力が入らない。
それでもなんとか立ち上がり、陽のさす窓を大きく解き放った。
外から、風が吹いてきた、部屋に、体に、僕の心に。
そして、風が吹き抜ける音を聞いていると、『そうだ、僕は解放されたんだ』という思いが湧き上がってきて、とめどなく溢れてくる。
窓の外を見ると、通りに、黄色い帽子をかぶって列をなして小学校に向かう男の子や女の子が見える。
僕は微笑んだ。
僕は満足して、自分の震える足でベッドに戻り、また眠った。
そして、また目を覚ますと、そこには、流花ちゃんと、もうひとり背の高い青年が立っていた。
「ほら、優君。会いたがっていたたっちゃんよ」
「たっちゃん」
僕の声は普通に出るようになっていた。
「優君」
優君は僕の手を両手で握り、ベッドの脇に跪いた。
「赦してくれ、僕を」
僕は白い天井を見上げた。
「赦すも赦さないもないよ、たっちゃん。僕は、ただ、たっちゃんに憧れて、たっちゃんのように成りたいと思っただけなんだ」
「それでも、僕は優君にひどいことを…」
「あれは、ただの、ある種の物語だったんだ」
「物語?」
「そう、物語。そして、僕は、もう、あの物語の中に生きてはいない」
「もう、私も、優君も、たっちゃんもあの物語の中には生きていないわ」
流花ちゃんが言った。
「僕たちは、ただの人間になったということだよね、流花ちゃん?」
「ええ、そうよ」
僕たちは、今までの人生分、全部を吐き出すように安堵のため息をついて…それから笑った。
(終わり)