支配者、ほとんどの人にとっては、親、特に母親との臍の緒を切って訣別することが、回復のために何より大切なことなのです。
けれど、この『親なるもの』は、場合によっては、具体的な親、母親に限らないのです。
特に、私のように、親が毒親だった場合、人は『親替え』をしようとすることもあります。
『親替え』とは何か?
自分の親が自分に愛を注いでくれない親なので、愛を注いでくれるいい親を求めることです。
そうして、上司、先生、友達、恋人、配偶者の中に理想的な親を探し求めます。
普通は、そういう理想的な親を求められても無理なわけですが、支配者である人ならば、理想的な親を演じて、愛を注いでくれる理想的親だと思わせ、依存させ、支配します。
その究極的な形は、宗教です。
O先生は、『神という言葉は支配者につながる』と言っていますが、なぜでしょうか?
『神』という概念、またイメージは、人が究極の『親替え』として作った言葉であるからです。
また、裏返してみると、支配者からすると、自分が『神』になることで、あるいは『神』の代理者になることで、または『神』という言葉を利用することで、人の究極的な親として人を支配することができるのです。
聖書を見ると、神が父なる神として表現されていますが、まさに、神が究極の親であるわけです。
だから、当然、『神』様と呼びかければ、究極の『親なるもの』である支配者とつながるのは当然のことでしょう。
私自身、支配者である母親との葛藤する中で、キリスト教に近づいて救いを求めたわけですが、それはさらに自分の中に混乱を招き入れるだけでした。
それは、単に、もっと良い親を求めて、『親替え』をして、さらに違う支配者に支配されるということなのですから、当然とも言えます。
そうすると、『親なるもの』との絆を断つということは、その射程は、具体的な親、母親だけではなくて、上司、先生、友達、恋人、配偶者の中に見ている『親なるもの』、さらには、『神』という『親なるもの』との臍の緒を断つということを意味していると言えるでしょう。
そこを徹底するということが、まさに要になるわけです。
附記1
『神』という言葉を使う宗教が支配者とつながるということを話しましたが、もちろん、『神』という言葉を使わない宗教も支配者とつながっていることは言うまでもないです。
他に、霊能者やスピリチュアルも支配者とつながっていると私は思います。
だから、回復したいならば、そこのつながりを断つと言うことが何よりも大事なのかもしれません。
親や母親の支配者を断ち切ろうとして、新たなる『親なるもの』の支配を入ろうとするならば、いつまで経っても支配から抜け出ることができないのは当然のことかもしれません。
附記2
O先生の本に、聖母のメダイをつけている人がFAPを受けていて、どうにも中指ビンゴが反応しなくてFAPができない、メダイを外してもらったらできたということが書かれていました。
このことも、宗教、あるいは信仰というものが、支配者とつながり、無意識とのつながりを経ってしまうということを表していると思います。
深掘り(ここは、普通は読まなくていいです)
「神を離脱せよ」(マイスター・エックハルト)
「仏に逢っては仏を殺し…父母に逢っては父母を殺し」(臨済録)
もちろん、キリスト教でも仏教でも、その中で、『神』や『仏』の『親なるもの』とのつながりを断つことが究極の救いであり、悟りであるという考えはないではないのです。
けれど、それは例外中の例外です。
エックハルトは異端者の汚名を着せられて迫害されました。
わざわざ、宗教の中にあって、そういう道を辿るのは、光の人として使命が与えられているならあり得ますが、普通は、『神』や『仏』という言葉があればどうしてもそこに『親なるもの』を見て支配者に囚われてしまいますし、回り道であると言わざるを得ません。