無意識さんとともに

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鬱からの回復(回復へのロードマップ)9〜支配と邪魔を排除するステージ①

では、いよいよ、「心に支配と邪魔を排除してもらうこと」を実践することに移ります。

もう1度、手順をおさらいします。

 

① 「心よ、私とあなたの間に支配と邪魔はありますか?」

YES→②

NO→①' 「心よ、本当に、私とあなたの間に支配と邪魔はないのですか?」

② 「心よ、私とあなたの間で支配し邪魔をしている人は誰ですか?」

③ 「心よ、〇〇さんからの支配と邪魔を排除してください。排除したら教えてください」

 

そうして、この「心に支配と邪魔を排除してもらうこと」を、最初の段階で何セット(①から③の一連の手順を1セットとして)ぐらいしたらいいかということです。

O先生は千本ノックとおっしゃっていました。

1日に3セットやるとしても、大体、1年前後かかることになります。

あるいは、「心の声を聞けるようになる」までという考えもありますが、これはオススメしません。何度も言っているように、これを目的にしてしまうと、支配者のなりすましを心の声だと信じ込んでしまうからです。

 

私は、自分の体験を省みて、3ステージあるのではないかと思いました。具体的には、3ステージ目に到達するまで(実際は、生涯毎日続けるにしてもとりあえず)続けることが大切なのかもしれません。

 

それは、こういう3ステージです。

 

①ステージ1

支配者に対して恐れを抱いている段階

②ステージ2

恐れが怒りに変わる段階

③ステージ3

③−1支配者が赤の他人になる段階

③−2支配者が支配することがお仕事のただの人間に感じられる段階

 

この3つのステージより先があるのかもしれませんが、私自身が経験していないので何とも言えません。

この3ステージは飛び級で行くことはできないようです。

例えば、③にいきなり行こうとすることは、①の支配者に対する恐れや②の支配者に対する怒りを抑圧して抑え込むことにすぎず、かえって遠回りになるだけです。

恐れや怒りは、マイナスなネガティブなだけの感情に見えますが、それらもまた役割を持っているのであり、各ステージでそれらに十分、気づくことが必要だと思います。

 

それでは、ひとつひとつのステージを説明していきたいと思います。

 

①ステージ1(支配者に対して恐れを抱いている段階)

「心に支配と邪魔を排除してもらうこと」を始めて支配者を特定すると(人によっては始める前から)、心に支配者への恐れが湧き起こってきます。

この恐れは、時には、支配者に対する愛(愛着や執着)に変わることもあります。

恐れや愛は、支配者から入れられているもの

と言っても、単純に入れられているというより、前に言いました、心に埋め込まれた呪い(と祝福)からきているものということができます。

つまり、『お前は私を離れず、私に聞き従うなら、うまくいく(祝福を得る)が、私に逆らって私から離れるなら、何もかもうまくいかない(呪われる)だろう。お前は私なしには、自分自身では生きられない』というような、

祝福であり同時に呪いである言葉です。

「心に支配と邪魔を排除してもらうこと」を始めることによって、いわば、支配者から離れようとすることによって、心に入れられていた呪いが発動します。

その呪いがいいしれない恐怖を生み出し、またその呪いと一体の祝福がこんなことはやめて支配者の元に戻りたいという愛の幻を見させます。

けれど、物事の裏から見るならば、こういう恐れと愛を感じるということは、支配者からもうすでに旅立ったということを意味しているのです。

ここから、「心に支配と邪魔を排除してもらうこと」を続けることで、恐れと愛は怒りに変わり、呪いは解除されていきます。

 

私のことを例にあげれば、

私は、「お前は私なしには生きられない」という呪いを母親から入れられ、さらに、もっといい親をと求めたキリスト教で、ある指導者から、「あなたは破滅するだろう」という具体的な呪いまで受けました。

そして、私は、この実践を始めた当初、母親には、やはり、恐れと愛を、指導者にも、言い知れぬ恐れと愛(相手が可哀想だという思い)を出てきて、どうしようもなかったことを覚えています。

けれど、これを続けて行ったときに、恐れと愛が怒りに変わることで、呪いは解除されました。

 

附記

ここでも、常識や宗教的な教えや実践は、呪いが解除されないようにしてきます。

ですから、そういう常識や宗教的な教えや実践は可能な限り避けることが必要なのです。

例えば、

私の場合は、マインドフル瞑想をしていましたが、ヴィッパサナーやサマタ瞑想はいいとしても、慈悲の瞑想は呪いを解除するのに強力な妨げになりました。

「⚪︎⚪︎が幸せでありますように」と、尊敬できる人から始まって自分が憎んでいる人、自分を憎んでいる人の幸せを願っていくのですが、

これだと、私の感情は抑圧されていくばかりで、一時的にいい気分にはなりますが、呪いは解除されず、次のステージに行くことができません。

仏教でも、キリスト教でも、他の宗教でも同じだと思いますが、

ブッダやイエスが、慈悲や愛に生きていたのは事実でしょう。

けれど、それは結果であって、その結果を、「怒ってはならない」「慈悲を持たなくてはならない、愛さなければならない」と言う言い方をすることによって、宗教はまさに人を支配する道具へと変えてしまっていると言っていいと思います。